山あいの古い旅館に、田中幸子が仲居として働き始めて三ヶ月が経った。 築百年を超える「花結び旅館」は、廊下の板が軋み、夜になると山風が障子をかたかたと鳴らした。それでも幸子は気に入っていた。女将の梅野さんは口数が少ないが親切で、先輩仲居の房江…
夜明け前の海は、いつもより静かだった。 沖へ出るために小舟の綱を解きながら、漁師の真一は眉をひそめた。風はない。潮も荒れていない。なのに、海面だけが落ち着きなく細かく揺れている。まるで、見えない何かが水の下で寝返りを打っているようだった。 …
放課後の廊下は、いつも少しだけ静かすぎる。 部活のない西村颯太は、誰もいない昇降口を抜けて通学路へ出た。今日も何もない一日だった。テストも返ってきたし、友達とも軽く話した。ふつうの、なんでもない火曜日。 通学路の途中にある掲示板の前を、颯太…
三年二組の担任、桐島麻衣は放課後の教室で画用紙の束を抱えていた。 図工の時間に描かせた「自分の家」の絵だ。 子どもたちのクレヨン画はどれも愛らしく、歪んだ屋根や丸い窓が並んでいる。麻衣はひとつひとつに赤ペンでコメントを書きながら、机の端に重…
佐藤は「奥湯の宿 糸屋」に着いたとき、すでに夜の十時を過ぎていた。 予約サイトには「山奥の秘湯 創業不明 口コミ数件」とだけあった。安かったから選んだ。それだけだった。 引き戸を開けると、女将が待っていた。 年齢がわからなかった。若くも老いても…
「今年も来たか」 老人は山道を登りながら、懐から五寸釘の入った布袋を取り出した。村に伝わる風習だ。山の神を鎮めるため、祠の人形に毎年新しい釘を打つ。古い釘は山の怒りを吸い取っているから、抜いて土に還さねばならない。 苔むした石段を上がると、…
旧校舎の取り壊しが決まったのは、秋の終わりだった。 放送部の三年生、倉田は最後の記念番組を作ろうと思い立った。テーマは「消えゆく旧校舎の記憶」。古びた木造の廊下、軋む階段、ひび割れた窓ガラス。どれも懐かしさと寂しさを帯びた風景だった。 「倉…