大学三年の春、俺は仮住まいとして古い団地に引っ越した。
本命の物件の入居日まで一か月空いていて、その間だけ住める格安の短期契約だった。
築四十年を超える取り壊し予定の公営住宅で、すでに住人の多くは出て行っていた。
左隣の部屋は空き室だと聞かされていた。
だが、引っ越して数日後から、夜になると妙な声が聞こえるようになった。
「いたい……いたいよぉ……ごめんなさい……」
深夜一時ごろ、壁の向こうから、小さな子どもの泣き声が響く。
謝るような声。苦しんでいるような声。
最初はテレビの音かと思った。
だが次の夜も、そのまた夜も、まったく同じ声、同じ言葉が、同じ時間に流れる。
まるで録音のようだった。
三週間が過ぎたころ、声が変わった。
「たすけて……だれか、たすけて……」
眠れない夜が続き、疲労と不安が積み重なった。
けれど不思議と、恐怖よりも同情の気持ちの方が強くなっていた。
この声が、もし本当に取り残された子どものものだとしたら。
殴られて、殺されて、それでもまだ助けを求めているのだとしたら。
そう考えると、無視している自分の方が悪い気がしてきた。
我慢できなくなり、大学を休んで市の図書館へ向かった。
地域の縮刷版を調べると、三十年ほど前に団地内で事件があったことがわかった。
被害者は母子家庭。父親は蒸発。母親は清掃のパートを掛け持ちしていた。
だがある日、息子が室内で死亡。母親はその横で首を吊っていた。
遺書などは見つからず、「心中」として処理されたらしい。
やるせない事件だった。
生活に追われ、誰にも頼れず、壊れてしまった母親。
俺が聞いていた声は、その子どものものだろうか。
成仏できず、今も助けを求めているのだろうか。
その夜、声はなかった。
代わりに、壁の向こうから「すぅ……すぅ……」という寝息のような音がした。
気味が悪いはずなのに、なぜか少しだけ、安堵していた。
引っ越しまで、あと数日。
そんな折、大家から電話がかかってきた。
「隣の部屋、明日業者が来るんだけど、急に来られなくなってね。中の確認だけお願いできないかな? 鍵はポストに入れておくから」
一瞬ためらった。
けれど、これは“何か”に応えるチャンスなのかもしれない。
そう思ってしまった自分がいた。
隣室のドアを開けると、埃の匂いが鼻をついた。
畳は色が抜け、家具も古びていたが、空き家というより“そのまま”の印象だった。
ふと、押し入れの前に紙束が落ちているのに気づいた。
それは、母親が遺したと思われるノートの一部だった。
「夫がいなくなった理由が、ようやくわかった。
あの子は笑って言った。“パパ、いらなかったから、いなくしてあげた”って。
私は怒った。でも、何度叱っても、同じことを言う。
ある夜、眠っていると、布団の中にもうひとつ、小さな呼吸の音があった。
目を開けても何もいなかったのに。
私がおかしくなったんじゃない。あの子が……
お願い。
誰か、あの子に声をかけてあげて。
無視だけは、しないで。
無視されると、きっと、また……」
読み終える前に、空気がひやりと変わった。
押し入れの襖が、かすかに開いた。
中に、子どもが立っていた。
白いシャツ。濡れた髪。顔はよく見えない。
ただ、確かにこちらを見ていた。

「……きこえてたのに、むししてた……」
その声は、最初に聞いたあの声とまったく同じだった。
俺はようやく理解した。
あの声は、殴られていたんじゃない。
助けを求めていたんじゃない。
あれは――ただ、“呼んでいた”だけだったのだ。
「……いっしょにいてよ……」
その瞬間、足元から冷たい何かが絡みついてきた。
手首を、腕を、肩を、まるで沈むように引きずり込まれていく。
目を閉じる直前、どこかで「またね」と聞こえた気がした。
翌朝、大家が訪ねてきたとき、俺の部屋には誰もいなかった。
荷物も財布もそのまま。
布団の上に置かれたスマホの画面だけが、点いたままだった。
玄関の鍵は内側から閉まっていた。
警察の捜索でも、痕跡は見つからなかった。
ただ一つ、異常があったという。
俺と隣室の壁に、無数の小さな手形が、内側から浮かび上がっていたのだ。
団地の取り壊しは無期限延期となった。
そして、空室のはずの隣室から、また声が聞こえ始めたという。
「……いたいよぉ……ごめんなさい……」
まるで、最初から、やり直すように。
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