大学三年の春、一人暮らしを始めた。
バストイレ別の古いアパートで、六畳の部屋。安いだけが取り柄だが、俺にとっては城だった。
誰にも干渉されない、自分だけの空間。そう思っていた。
最初に気づいたのは、入居から三週間目のこと。
散らかした覚えのある服が、きちんと畳まれていた。
「まあ、寝ぼけて片付けたのかもな」と笑った。
だけど、笑いながらも胸の奥に、ひっかかりがあった。
それは次の日に確信に変わった。
机の上が完璧に整理され、プリントが束ねられていた。俺の雑な性格では、あり得ない整頓ぶりだった。
混乱したまま、スマホのメモ帳に書いた。
「今日、誰か来た?」
次の日、知らない文が追記されていた。
「また汚れてたから、片付けといたよ」
背筋が凍った。誰かが俺のスマホを操作した? ロックはしてあったはずなのに。
震える指でスマホを持ち、部屋中を見回した。ドアも窓も閉まっていた。けれど、確実に“何か”が、部屋の中に入った気配があった。
それでも俺は、警察に行かなかった。
「被害はない」「ただのイタズラかも」「寝ぼけていたのかも」
そんな言い訳を繰り返しながら、自分の恐怖に蓋をした。
でも、“それ”は止まらなかった。
次の日、台所の流しが磨かれていた。脱ぎっぱなしのシャツが、タンスに仕舞われていた。
俺は何度も、記憶をなぞった。「こんなこと、俺がやったのか?」「いや、でも……」
脳のどこかがぐらつくような、奇妙な感覚。自分の行動が、自分の記憶と一致しないことがこんなに怖いなんて、知らなかった。
でも一方で、俺は安心していた。
散らかった部屋が整っていることに、正体不明の“誰か”が俺の代わりに掃除してくれていることに、どこか安堵を覚えていた。
いつしか、部屋を綺麗にしてもらうことが「前提」になっていった。
そんな自分に気づいたとき、寒気がした。
「俺……壊れてきてるのか?」
ある晩、鏡に文字が浮かんでいた。
「ひどいよ、わざと散らかすなんて」
俺は、心から申し訳ないと思った。
涙が出た。誰かが自分のために尽くしてくれている。
俺はその手間を踏みにじった――そんな罪悪感が、胸の奥から湧き上がってきた。
そしてその感情は、どこか温かかった。「俺は独りじゃない」と、錯覚してしまったのだ。
そんな俺を見て、バイト先の先輩は笑った。
「それ、ストーカーじゃね?やばくね?」
笑えなかった。
その言葉が、なぜかひどく不快だった。
“あの人”を、悪く言われた気がした。俺の“世話をしてくれる人”を。
ある日、ポストに封筒が届いた。
「次は、身体の中も片付けてあげるね。きみ、内臓もずいぶん汚れてる」
目を通した瞬間、喉の奥が熱くなり、吐き気が襲ってきた。
洗面所で吐くと、黒い塊がドロリと出た。鏡を見ると、俺は……俺じゃなかった。
目の下にクマ、くすんだ肌。なのに、その顔を見たとき、俺はこう思った。
「これが本当の俺なんだ」

病院へ行こうと玄関まで歩いたが、足がすくんで動けなかった。
扉の前で膝が崩れた。涙が止まらなかった。
「外は汚い」
どこからともなく、そんな声が聞こえた気がした。
そのとき初めて、自分が何日も大学に行っていないことに気づいた。
授業も、バイトも、もうどうでもよかった。ただ、部屋さえあればよかった。
スマホを開くと、画面が真っ白になっていた。
アプリも、履歴もない。ただ、ひとつのメッセージだけが表示されていた。
「今日もきれいにしたよ。でもまだ、きみの“心”が汚れてる」
その晩、目覚めるとシーツが血で濡れていた。腹に切り傷。
でも、痛みはなかった。むしろスッとした。
「汚いものが、出ていった」と思った。
それが何かなんて、どうでもよかった。ただ、部屋が完璧であることが重要だった。
もう、泣けなくなっていた。
涙が、出ない。怒ることも、笑うことも、難しくなってきた。
でもそれは悪いことじゃなかった。むしろ、“順調な回復”のように思えた。
朝、目覚めると、指が一本なくなっていた。
どこかで、こうつぶやいていた。
「汚かったもんな、あの指……」
血も出ていなかった。痛みもない。
代わりに、空気が澄み渡っていた。これまでにないほど、呼吸が心地よかった。
その日の夜、スマホに最後のメッセージが届いた。
「これでようやく、全部きれいになったね。……次は、誰を片付けようか?」
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