高校の女子トイレには、ひとつだけ古い個室がある。
新しくなった他の個室と違って、そこだけ床が微かに沈み、壁紙も薄く黄ばんでいた。
天井の明かりだけが暗く、何かの拍子に点滅する。
誰が言い出したのかは知らないが、その個室には“ある噂”がある。
深夜2時44分に、その扉を5回ノックすると、女が現れる。
ただし──返事をしてはいけない。どんな声にも。
くだらない、と思っていた。
けれどある日、朱音(あかね)が言い出した。
「マジでやってみようよ。来たら動画撮って、バズらせよう」
私と沙耶(さや)と朱音は、入学してからずっと一緒だった。
怖かったけど、朱音の言葉に引きずられる形で、私たちは夜の学校にこっそり忍び込んだ。
深夜の校舎は、思っていた以上に静かで、寒かった。
非常灯の明かりはかすかに点滅し、廊下の奥から何かの機械音が遠くに聞こえた。
女子トイレの中も、湿気を含んだ空気が淀んでいた。
奥の古い個室だけが、明らかに異質だった。
床は沈み、鍵はぐらついていて、塗装も剥げていた。
沙耶がスマホを見て言った。
「……2時43分」
空気が一段と重くなった気がした。風もないのに、頬に冷たい何かが触れた気がして、思わず肩が震えた。
「ほんとにやるの?」
私が聞くと、朱音は笑って頷いた。
「やらなきゃ意味ないじゃん」
彼女はゆっくりと拳を握り、古びたドアの前に立つ。
スマホの画面が2時44分を示した瞬間、彼女は静かにノックをした。
コン、コン、コン、コン、コン。
……沈黙。
3人とも息を殺した。空気が張り詰めているのがわかった。
「……なーんも起きないじゃん」
朱音が肩をすくめて笑った、その直後だった。
コン、コン、コン、コン、コン。
まったく同じリズムで、内側からノックが返ってきた。
私たちは一斉に凍りついた。朱音が声を出しかけたが、沙耶が慌てて口を塞いだ。
返事をしてはいけない──噂の通りだ。
その瞬間、ドアの下から何かが覗いた。
白く細い足。影のような、境界の曖昧な輪郭。
誰かが中にいる。けれど、私たちは知っていた。さっきまで誰もいなかったことを。
「帰ろう」
沙耶の声が震えていた。
その夜はそれで終わった。誰も返事をしなかったからだ。
帰り道、誰も話さなかった。
次の日、朱音は学校に来なかった。
担任は「風邪らしい」と言ったけれど、LINEも既読にならず、SNSの更新も止まっていた。
三日後、朱音の部屋は空っぽになっていた。
親もいなくなっていた。まるで最初から存在していなかったかのように。
一週間が過ぎた頃、沙耶がぽつりと呟いた。
「あのとき……朱音、なんか言ってた。“なんか聞こえた”とか、返事みたいなこと」
私も思い出していた。朱音は、ノックが返ってきた瞬間、笑って何かを呟いた。
あれが“返事”だったのかもしれない。
それから私も、妙な気配を感じるようになった。
特に、学校の女子トイレの鏡。あの古い個室がある場所。
鏡を見るたび、背後に視線のようなものを感じた。振り返っても、誰もいないのに。
沙耶もおかしくなっていた。誰とも話さず、目を合わせようとしなかった。
そしてある日、彼女は女子トイレの床で倒れていた。
意識を取り戻したとき、彼女は天井を見つめたまま、かすれた声で言った。
「……いたの。個室の中に」
震える指で空中をなぞりながら、沙耶は続けた。
「ずっと立ってた。しゃがんでも、動いても、音ひとつ立てないまま……。
壁と同じ色で、最初は気づかなかった。目を凝らすと、輪郭が浮いてくるの。人の形。でも、あれは人じゃない」
「顔がなかった。真っ黒で、何もない。でも、見られてるのだけはわかった。
息をしてないのに、生きてる。壁と同化して、ずっと、こっちを見てた」

「声がした。“今度は、あなたの番”って。耳じゃなくて、頭の中に。
ドアが開いてなくても、あれはもう、外に出てる」
その日を最後に、沙耶も学校に来なくなった。
私は、ただ黙って日常を続けた。噂にも、二人の名前にも触れなかった。
私は返事なんかしていない。
そう信じていた。
けれど──昨夜。
夜中、寝ぼけたままトイレに行こうと廊下に出たとき、背後で音がした。
コン、コン、コン、コン、コン。
時計を見ると、2時44分。
誰もいない廊下。なのに、確かに音が響いた。
トイレのドアノブに触れた瞬間、背後に冷たい気配を感じた。
ゆっくりと振り返る。
廊下の隅に、何かがいた。
最初は気づかなかった。壁と同じ色、同じ質感──空間の“染み”のようだった。
でも、そこに“輪郭”があった。人の形をして、立っていた。
顔がない。ぽっかりと空いた黒い穴だけが、こちらを向いていた。
足元に、水の跡ができていた。
濡れた足跡が、私の背後からトイレの中へと続いていた。
トイレの電気が、勝手についた。
振り返ると、扉の隙間に誰かが立っていた。
壁と同じ色をした女が。
「返事、してくれたよね」
そのあと、私はいなくなった。
もう、誰も私のことを知らない。
でも、今もどこかで音がする。
2時44分に、5回だけ──そのあと、必ず返ってくる音。
そしてまた、誰かが呼ばれる。
そうして、“壁の女”は、増えていく。
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