音楽室のピアノには鍵盤がない。
白鍵も黒鍵も、すべて剥ぎ取られたまま、ただの箱のようにぽつんと置かれている。
それでも、ときどき、音がする。
誰も触れていないのに――誰もいないはずなのに――チャイコフスキーの『舟歌』が流れ出す。
途中で、必ず、止まる。
この話をする理由は、誰にも理解されないと思う。
でも、今さら黙っているのも違う気がして。
だって私が始めたことなのだ。
あの日、あの子を、あそこへ追い込んだのは、私だった。
彼女は、目障りだった。
フルートばかり吹いて、こちらの空気を読まずに練習していた。
音楽室のピアノに座って、よく“舟歌”をなぞっていた。指で鍵盤をなぞるだけ。
誰にも何も言わず、ひとりで集中して。
それが気に入らなかった。鼻についた。
私は、さりげなく始めた。
楽譜を隠す。譜面台を倒す。休憩中に机を漁る。
周りもすぐに乗ってきた。
彼女は何も言わなかった。耐えていた。
それがまた腹立たしかった。
だから、私は最後の日、あの屋上に行った。
「このままじゃずっと無視され続けるよ?」
「ここから飛べば、注目されるんじゃない?」
もちろん、冗談だった。
でも、彼女は笑わなかった。
無言で、柵の上に足をかけた。
「……やめなよ」
気づいたときには、もう落ちていた。

私は何も言わなかった。
ただ、走って逃げた。
誰にも言わなかった。
あれは事故になった。
うやむやにされた。
誰も関わらなかった。
私の計算通りだった。
……のはずだった。
音が鳴り始めたのは、それから数週間後。
誰もいない音楽室で、舟歌の断片が聞こえるようになった。
最初に気づいたのは、私だった。
昼休み、廊下を歩いていたら――“チリン”という音。
小さな鈴。あの子のブレスレットの音。
そして、ぽん……と、ピアノの音。
鳴るはずのない鍵盤から、音がした。
最初は無視した。
けれど、夜中にも聞こえるようになった。
自分の部屋、布団の中。眠りに落ちる寸前、誰かが背中で舟歌を弾いている。
夢だと思った。
でも、翌朝、机の角に爪の痕が残っていた。
気づくと、私の指が勝手にリズムを取っていた。
骨の中にメトロノームが入ったような、止められない打音。
関係ないはずの部員も、ひとりずつ壊れていった。
退学した子もいたし、家ごと引っ越した子もいた。
皆、「指がおかしい」と言っていた。
「骨が動く」「止まらない」「誰かに弾かれてる」って。
でも私は違う。
私は――知っているから。
私は、“主旋律”だった。
彼女を追い詰めた最も強い音だった。
だから彼女は、私を鍵盤の中心に選んだのだと思う。
そして今日、私は自分の指が“戻らなくなった”ことに気づいた。
動かすたび、どこからか舟歌が鳴る。
耳元で、じゃない。指の骨から、直接響いてくる。
足元には、黒い鍵盤の影が伸びている。
私の身体が、“鍵”に変わっていくのがわかる。
息を吸うたび、あの子の呼吸が混ざっている。
声が出ない。
思い出すことすら、怖い。
でも、指だけは止まらない。
音楽室に行かなければならない気がする。
呼ばれている。
鍵盤のないピアノに。
私のための“鍵”が、ひとつ足りないらしい。
だからこれを書いている。
最後の記録として。
もし、あなたがある日、学校の音楽室で“チリン”と音を聞いたら、すぐに離れて。
それは演奏の始まり。
あなたが何もしていないなら、まだ間に合う。
けれど、何かを見て見ぬふりした覚えがあるなら……
無視したことがあるなら……
それはきっと、あなたの指に触れにくる。
舟歌はまだ、最後まで弾かれていない。
私の音が鳴り終わったら、
次は――