骨董収集家の間で、◯◯古道具店の奥を知る者は少ない。
表に並ぶのは皿や壺、柱時計。どれも値札がついていて、誰でも手に取れる。
だが奥には腰の高さほどの木戸があり、その向こうは常連でも滅多に入れない。
出入り口には、金属の南京錠が掛けられていた。
ある晩、閉店間際に立ち寄った私は、店主に声をかけられた。
「珍しいのが、入ったんだ」
老いた店主は痩せこけた頬を引きつらせ、木戸の鍵を外した。
奥は薄暗く、古い家具や箱が天井近くまで積み重なっていた。
湿った木の匂いの中に、漆の甘い香りが混じる。
その中央に、背丈ほどの姿見が立て掛けられていた。
木枠は黒く煤け、所々虫食いがあり、艶を失っている。
ガラス面は煤膜のようにくすみ、ぼんやりとしか像を映さない。
「裏を見てごらん」
店主はそう言って鏡をゆっくり傾けた。
枠の裏板に、黄ばんだ和紙が貼られていた。
墨でびっしりと細かな文字が書かれている。筆の運びは均一で、読む者を拒むかのように詰められていた。
それが祝詞のようなものであると直感したが、神社の札とは違い、妙に歪んだ筆致だった。
「外したらいけない。そう言われて手に入れたんだ」
店主の声はかすれていて、冗談の響きがなかった。
「誰に?」と聞くと、
「寺の坊主だよ。村を出て行く時、持って行けと言われた」
それだけを告げると、彼は鏡を元の位置に戻した。
——二週間後。
新聞の片隅で、店主が自宅で急死したと知った。心臓発作だったという。
葬儀の後、遺品整理の手伝いを申し出た私は、例の鏡を見つけた。
遺族は興味もなく、「持って行っていい」と言った。
部屋に置くと、不思議なことに気付いた。
夜、部屋の明かりを消しても、鏡の中だけがうっすらと白んで見える。
輪郭の曖昧な人影のようなものが、そこに立っている時がある。
目を凝らすと消え、視線を逸らすとまた現れる。
骨董品の癖だと軽く考えていた。
しかし数日後、帰宅した時、鏡がわずかに温かくなっているのに気付いた。
手を当てると、裏側からじんわりと熱が伝わってくる。
そして夜ごと、鏡の中の人影は少しずつ形を持ちはじめた。肩の線、髪の揺れ、口元の笑み。
ある晩、我慢できずに裏の札を確かめた。
黄ばんだ紙は枠の隙間にしっかり押し込まれ、墨はすっかり薄れていた。
端をめくった瞬間、冷気とも熱気ともつかない空気が指先を包んだ。
ふと耳の奥で、低い声が囁いた。
——戻せ。
振り向くと、鏡が部屋の明かりを反射していない。
代わりに、くっきりと昼間のような光景が映っていた。
そこに立っていたのは、私と同じ顔をした何者かだった。
だがその口は裂け、歯がむき出しになって笑っている。

視界が揺れた。気付けば私は鏡の中に立っていた。
外の部屋には「私」がいる。
そいつは札を丁寧に元の位置に押し込み、裏板を叩いて固定した。
そしてこちらを見やり、裂けた口をさらに開いた。
音がない。
窓の外は真っ白な靄に覆われ、風もない。
家具は同じなのに、空気は水の中のように重い。
私は鏡の向こうへ手を伸ばすが、表面は固く、指先が跳ね返される。
外の「私」は、部屋の灯りを落とし、静かに座った。
その動きに合わせ、私の呼吸も苦しくなっていく。
やがて視界の端に、もう一つの人影が現れた。
それは私の肩越しに覗き込み、耳元で吐息をかけた。
——戻ったんだね。
その声を最後に、私は自分の名を思い出せなくなった。
今も鏡の裏には、黄ばんだ札がきっちりと貼られている。
外の「私」が、それを剥がす日は来ないだろう。
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