父の葬式が終わった夜、台所に小さな氷箱が置いてあった。
中には、銀色の魚が三匹。母が言うには、父の古い友人が持ってきたらしい。
艶やかな鱗がまだ光っている。港町で育った父は、生前よく魚を捌いては酒の肴にしていた。俺も何度か手伝ったことがある。
「明日、焼こうか」
母がそう言って冷蔵庫に移そうとしたが、俺は何となく見ていたくなって、まな板に一匹だけ出した。
台所の蛍光灯の下で、魚の目がこちらを見ている。
黒い瞳孔の奥に、もう一つ小さな丸があるように見えた。
それは光の加減かもしれない。けれど、目を離してまた見ると、その丸は少し大きくなっていた。
夜中、喉が渇いて起きた。
台所に向かうと、氷箱の蓋が開いている。母は寝ているはずだ。
覗き込むと、魚の目が氷の中から覗いていた。冷え切ったはずの体が、僅かに動いた気がした。
瞳の奥の丸は、昼間よりもはっきりしている。人の虹彩のように、微かな色が渦を巻いていた。
思わず顔を近づける。
――瞬間、瞼の裏がざわつくような感覚に襲われた。
背後で何かが立った気配がした。
振り返ると、誰もいない。ただ、窓ガラスに映った俺の顔が、ほんの一瞬、目の色だけ変わっていた。
三日後、港へ出た。父の友人に礼を言うためだった。
古びた魚屋の奥で、その男は網を直していた。皺だらけの顔、灰色の作業着。
話を切り出すと、男は不意に表情を固くした。
「……魚、まだ食べてねえか?」
「いえ、あれから……冷蔵庫に」
男はしばらく黙ってから、低い声で言った。
「あの目は、見ちゃいけねえ。覗き込むと、向こうからも見える」
詳しいことは何も教えてくれなかった。
ただ、その言葉が耳の奥に残り続けた。
夜、夢を見た。
黒い水面に顔を近づける自分。水の底に、大きな魚の目がひとつ、ゆらゆらと揺れている。
その奥に、人の目があった。
見覚えのある目だった。父の目だ。

目が瞬きした瞬間、水面が割れ、冷たい何かが俺の顔を包み込んだ。息ができない。
目を開けると、そこは台所だった。まな板の上に魚が一匹。
それはゆっくりと口を開き、俺の名前を呼んだ。
翌朝、冷蔵庫の中は空だった。母は何も知らないと言う。
魚を捨てたのかと聞くと、「そんなの、そもそも受け取ってない」と返された。
妙な寒気がした。俺は確かにあの氷箱を見たはずだ。魚を触った感触も残っている。
その夜から、鏡を見るのが怖くなった。
自分の目の奥に、淡い輪郭が浮かんで見えるのだ。それは日を追うごとに鮮明になっていく。
ある夜、鏡の中の“俺”が瞬きをしなかった。
三度目の夢を見た。
港の防波堤に立っている。
足元の海面から、無数の魚の目がこちらを見上げている。
目の奥にある丸は、すべて人の目だった。口を動かしているが、泡しか出ない。
ふと気づくと、自分の足首から下が水に沈んでいた。
冷たい感触が脛を登ってくる。反射的に逃げようとしたが、足は動かなかった。
目の群れが一斉に瞳孔を開いた。視界が暗くなる。
最後に見えたのは、自分の目がその群れに混ざっていく光景だった。
朝、目を覚ますと視界が霞んでいた。
鏡の前に立つ。
そこには、自分そっくりの顔があったが、目の奥に小さな魚が泳いでいた。
その瞬間、口の中に塩の味が広がった。
そして、鏡の中の俺が、わずかに笑った。
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