夜の病院は、不自然に静かだった。
昼間は行き交う足音や検査の声で満ちている廊下も、深夜の清掃の時間には、床のワックスがけの音が虚しく響くだけだ。
アルバイトの青年――広瀬は、黙々とモップを動かしていた。
患者は夜間病棟に十数人だけ。ナースステーションからも遠いこのフロアは、普段ほとんど人が来ない。
だからこそ、時折聞こえる微かな物音に敏感になる。
「……」
耳を澄ます。
廊下に設置された赤いランプが点滅し、ナースコールの音が鳴った。
カチ、カチ、と規則的な電子音。
広瀬は顔を上げた。
鳴っているのは――二〇五号室。
だが、そこは――誰も入っていないはずの病室だった。
昼間、看護師が「ここは空き部屋だから」と笑っていたのを思い出す。
ベッドは整えられたまま、しばらく使われていない。
にもかかわらず、確かにランプは光っている。
「機械の誤作動……だよな」
小さくつぶやきながらも、胸の奥で心臓が早鐘を打つ。
ナースに知らせようか。
けれど、深夜のナースステーションは人手も少ない。清掃員が呼びに行くのも気が引けた。
それに、自分で確認して誤作動だったとわかれば、それで済む。
そう考え、広瀬は二〇五号室の扉に手をかけた。
――ギィ……。
部屋の中は暗い。
非常灯がぼんやりとベッドを照らしている。
そして、そこで広瀬は――息を飲んだ。
白い布団が、人の形に膨らんでいたのだ。
頭からすっぽり覆うように、布団が盛り上がっている。まるで患者が眠っているかのように。

「……誰か、いるんですか?」
声をかけたが、返事はない。
静寂の中で、ただ機械の電子音だけが響いている。
広瀬は一歩、二歩と近づいた。
シーツの下の形は痩せた老人のように見える。
だが、ここに患者がいるはずはない。
「すみません……?」
布団の端にそっと手を伸ばす。
指先が布地をつかんだ、その瞬間――。
――ピタリ。
ナースコールの音が止まった。
部屋に、完全な静けさが訪れる。
耳の奥で自分の血流の音だけが響く。
広瀬は恐怖に耐えきれず、勢いよく布団をめくった。
そこには――誰もいなかった。
ただ、マットレスには確かに、人が横たわっていたかのような深い凹みが残っている。
人影はなく、冷たいシーツが乱れているだけだった。
「……っ」
喉が渇き、声にならない息が漏れる。
背後の闇から誰かに見られているような気配に押されるように、広瀬は部屋を飛び出した。
廊下へ戻ると、先ほどまで点滅していたランプは消えている。
何事もなかったように、病棟は静まり返っていた。
――気のせいだ。
自分に言い聞かせるようにモップを握り直す。
だが、その夜からだ。
清掃中、背後に足音を聞くようになった。
振り返ると誰もいない。
モップで拭いたはずの床に、水滴の跡がいくつも続いている。
極めつけは――三日後。
またしても二〇五号室のナースコールが鳴った。
広瀬は震える足で向かい、扉を開けた。
部屋の中。
布団の凹みは以前よりも深く、枕の上には白髪が数本落ちていた。
「……どういう……」
その瞬間、ナースコールが自動で切れ、代わりに枕元の受話器から声がした。
「……寒いんだよ」
老人のようなかすれ声。
広瀬は悲鳴を上げて後ずさった。
受話器は誰も触れていないのに、勝手にガタンと落ちる。
――そして、布団がもぞりと動いた。
沈んだ凹みが、ゆっくりとこちらに向かって起き上がるように。
広瀬は廊下に飛び出し、振り返ることなく逃げた。
背後で何かがシーツを引きずる音が、ずるり、ずるりとついてくる。
階段を駆け下り、ナースステーションへ辿り着いたときには、声も出ないほど青ざめていた。
しかし、ナースに訴えても――。
「二〇五号室は鍵がかかってますよ」
そう笑われただけだった。
鍵は渡されたまま誰も開けていないという。
――では、あの布団に沈んでいたのは?
以来、広瀬は夜勤を辞めた。
だが噂によると、いまも深夜になると、あの病室のランプが点滅し続けているらしい。
そして――広瀬自身の布団にも。
眠ると、必ず隣に人の形の沈みが現れるという。
布団をめくっても、そこには誰もいない。
ただ、枕には一本ずつ、白髪が増えているのだ。
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