体育館の舞台裏は、常にどこか湿っていた。
木材が染み込んだ古い水分の匂いと、汗と、埃。
電源を入れる前のアンプからは、耳鳴りのような低い唸りが絶えず漂っていた。
「ここ、嫌な感じするな」
ギターの蓮が言った。
「舞台裏なんてどこもこんなもんだろ」
ベースの恭平が鼻で笑った。
ドラムの優斗は何も言わず、スティックを握ったまま舞台の奥を見つめていた。
翌日の文化祭で演奏する予定の曲。
三人はその仕上げを確認するため、舞台裏で音を合わせていた。
だが、蓮は最初の一音から異常を感じた。
――誰かが一緒に弾いている。
ギター、ベース、ドラム。
自分たち三人の音に、ほんの一拍遅れて同じ音が重なる。
アンプの返りかと思ったが、リズムも抑揚も完璧に一致していた。
「おい……」
蓮が演奏を止めると、残響だけがしつこく残り続けた。
そしてその残響は、まるで“別の演奏”に変わっていった。
文化祭でやるはずの曲が、完全な形で流れてくる。
自分たちの稚拙な演奏よりも格段に完成度が高い。
観客の歓声まで混じり、体育館全体が震えるほどの臨場感を帯びていた。
「録音とか流してんのか?」
恭平が顔を引きつらせた。
「違う……こんなの誰も録ってない」
蓮は確信していた。
この音は、自分たちが知らないのに“知っている”音だ。
優斗がスティックを握りしめ、唐突に言った。
「俺、思い出した」
二人が振り向く。
「前にもやったんだよ、この舞台で。この曲で」
優斗の声は妙に平坦だった。
「嘘つけ」
恭平が否定した。
「去年は台風で中止だった。お前だって知ってんだろ」
「でも、俺は覚えてる」
優斗はじっと目を見開いたまま、乾いた笑みを浮かべた。
「歓声のあとで……悲鳴が響いたんだ」
蓮の背筋に冷たいものが走った。
優斗の言葉が、舞台裏の空気そのものを重くしたように思えた。
その瞬間、照明も落ちているはずの舞台からスポットライトが差し込み、三人を照らした。
見上げると、誰もいない観客席に黒い影がぎっしりと並んでいる。
「なんだよ……これ」
恭平が震える声で言った。
影は一斉に立ち上がり、手を叩いた。
次の演奏を求めるかのように。
気づけば、三人の手には楽器が握られていた。
蓮の指は勝手に弦を押さえ、恭平のベースが低音を刻み、優斗のスティックが宙を叩く。
――体が、自分の意思を無視して動く。
曲は進む。
だが蓮には、弾いている音がすべて“記憶にない”ものに感じられた。
なのに、同時に「前にも弾いた」という確信が胸の奥に張り付いている。
観客の影が揺れ動き、笑っているように見えた。
黒い顔には目も口もなく、ただ音に合わせて蠢いている。
「やめろ……やめろぉ!」
蓮はギターを叩きつけた。
だが砕けた弦からは、さらに大きな音が響いた。
舞台裏の空気を震わせ、頭蓋の内側に食い込むような音。
恭平が耳を塞ぎ、悲鳴を上げた。
「こんなの俺たちの曲じゃない! 誰が作ったんだよ!」
優斗だけは、無表情のまま演奏を続けていた。
曲が終わると同時に、体育館は再び静まり返った。
照明が落ち、影も消えた。
だが三人の耳には、まだ余韻が残り続けていた。
蓮は膝をつき、荒い息を吐いた。
「……俺たち、さっき何をやってた?」
恭平は答えなかった。
顔を伏せたまま、口の中で小さく繰り返している。
「……もう一回……もう一回……」
その声は震えていたが、確かに笑っていた。
気づくと、舞台裏の出口がなくなっていた。
扉も通路も壁に変わり、残されたのは舞台へ続くカーテンだけ。
優斗が立ち上がり、淡々と告げた。
「また始まるぞ」
その言葉と同時に、カーテンの向こうからイントロが流れてきた。
記憶にないのに馴染み深い旋律。
拒めないほど自然に体を支配する音。
蓮は泣きながら首を振った。
「もう嫌だ……やめたい……!」
だが足は舞台へと歩き出していた。
背後で恭平が狂ったように笑い、優斗は無表情のまま歩調を合わせる。
観客席に再び黒い影が溢れる。
拍手が嵐のように響き渡る。

――そして曲が始まる。
蓮の喉から悲鳴が漏れたが、それすらも音に溶け込み、旋律の一部になっていった。
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