山奥の夜道を、彼の車が走っていた。
窓の外は真っ暗で、ライトに照らされた細いアスファルトが、かろうじて道の形を見せているだけだった。
「この道で合ってるんだよね?」
私はスマホを握りしめながら言った。
「地図だと、この先のトンネルを抜ければ街に出るはず」
彼はそう言って笑った。
前方に、ぽっかりと口を開けた黒い影が見えた。苔に覆われ、照明ひとつない古びたトンネル。
胸の奥がきゅっと縮む。
「……嫌な感じ」
「ただのトンネルだろ。怖がりすぎ」
彼は軽く言って、アクセルを踏み込んだ。
車が闇に呑み込まれた瞬間、耳が詰まるような圧迫感が走った。
世界がしんと沈黙する。
――そのとき。
「ねえ……今、後ろで音しなかった?」
私は声を潜めた。
「気のせいだよ」
そう言いながら、彼はルームミラー代わりのモニターをちらりと見た。
「……え?」
彼の表情が凍りついた。
促されて私も見た。
そこには、後部座席に座る濡れた髪の女が映っていた。顔をうなだれ、動かない。でも振り返ると――そこには誰もいなかった。

「ほら、いないじゃん……!」
必死に叫んだ。けれどモニターの女は、ゆっくりと顔を上げた。
白く濁った目が、まっすぐ私を見ていた。
「抜ければ大丈夫だ!」
彼が叫び、車は出口に向かって加速する。
やがて、光。
トンネルを抜け、夜空が広がった。冷たい風が一気に流れ込む。
「……消えた。ほら、大丈夫だ」
彼は額の汗を拭い、笑った。モニターには、もう女の姿は映っていなかった。
私も安堵の息を漏らした。
――だが、その瞬間、ぞっとした。
モニターに映っている助手席の女は、安堵の笑みを浮かべていた。けれど、その顔は私ではなかった。
私の輪郭をしているのに、どこか別人。瞳が濁り、笑みが引きつっている。
「え……」
動揺して視線を落とすと、自分の手が、知らないうちに後部座席のシートを掴んでいた。
身体が思うように動かない。声も出ない。
モニターの中、助手席の“私”が彼と談笑している。二人の笑い声が車内に響く。
私は――ここじゃない。私は、後ろに閉じ込められている。
必死に窓を叩こうとした。けれど腕は動かない。喉も硬直して、声も出せない。ただ、息だけが苦しく荒れていく。
助手席の“私”が、彼に向かって微笑んだ。
その笑みは私の笑みではない。
中身のない、形だけの皮。
彼は気づいていない。隣に座っているのが、もう私ではないことに。
車は山道を滑るように進んでいく。
笑い声が響く中で、私は後部座席の奥に沈んでいった。
暗闇に押し込められたまま、二度と戻れないと悟りながら。
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