吹雪が山小屋を包んでいた。薪をくべても火は湿り気を帯び、赤い芯が揺れるだけだ。
狩人の俺は壁に吊るした獲物を見やった。今朝仕留めた大鹿。
雪の中でよくぞここまで暴れたものだと、己の腕を誇りたい気持ちが半分。だが――胸の奥で、妙なざわめきがあった。
鹿の体毛は白かった。雪に紛れるほどの純白。目に映るたび、ただの獲物ではない気がした。
それでも空腹には代えられぬ。肉を削ぎ落とし、鍋に沈めた。
だが煮えた肉はどれも鉄のように硬く、歯が立たない。脂も落ちない。腹は満たされず、ただ小屋の中に血と蒸気の匂いが満ちていった。
その夜、戸を叩く音がした。三度、間を置き、また三度。
吹雪の中で、そんな規則正しい音を立てられるものがあるだろうか。
「……誰だ」
返事はなく、戸口の隙間から白い髪の束が滑り込んだ。冷気が小屋に沈む。
「ここに……私のものがある」
女の声だった。戸を押し開くと、そこに立っていたのは――人の形をした何か。
顔は恐ろしいほど整いすぎ、仮面のように表情を欠いていた。
皮膚は雪よりも白く、血の色を一滴も持たない。不自然に長い髪は風に散らされても濡れず、肩から腰にかけての輪郭は吹雪に溶け込み、衣服の有無すら判別できない。

まるで景色そのものが人の形をして立っているようだった。
その存在は壁に吊るされた鹿を見上げ、ひび割れた口元で笑った。
「返して」
「……これは俺の獲物だ」
銃を手にして唸ったが、女は首を傾げただけだった。
「それは、私の伴侶。山で生きる白毛。あなたが奪った」
息が止まった。獣が“伴侶”?
ふざけている。だが、鹿の瞳が薄く光を返した気がした。氷の底に沈むような、無機質な光。
俺は震えを押し殺し、叫んだ。
「冗談じゃねえ。腹を満たすために撃ったんだ。山に生きる者の掟だ!」
女は近づき、指先を肉鍋の縁に触れた。白い湯気が一瞬で凍り、鍋の中は氷の塊に変わった。
「掟を口にするなら、山をもっとよく見なさい。あれはただの獣ではない」
その瞬間、小屋の壁が軋んだ。吊るされた鹿の体が動いたのだ。縄が軋み、血の滴る首が揺れる。
ありえない。息の根はとっくに止めたはずだ。だが鹿の口から吐息が漏れ、白い霧となって小屋を満たした。
俺は銃を構え、引き金を引いた。乾いた音。だが弾は鹿の体を貫かず、雪の粉となって崩れた。
「撃てば撃つほど、あの子は遠くなる」
女の声が耳に絡みつく。
恐怖に駆られ、俺は戸口に飛び出した。だが外は嵐。雪壁に押し返され、小屋の中へ転がるしかなかった。
ふと気づくと、鹿の姿は消えていた。縄だけが垂れ下がり、赤い染みを残している。
女は火の前に座り、俺を見上げて言った。
「返せないなら、あなたが代わりなさい」
背筋が凍った。俺の脚に重みがかかる。
視線を落とすと、足先から毛が生えていた。白い、獣毛のようなものが皮膚を突き破り、爪が黒く伸びていく。
「やめろ……!」
声を張り上げても、女の瞳は愉しげに揺れるだけだった。
「人が獣を奪った。なら獣が人を奪う。山はそうやって均すの」
骨が軋む。背が曲がり、胸の奥に冷たい息が満ちていく。
叫びたいのに、喉が鳴かない。代わりに鼻先から白い蒸気が吹き出した。
女は頬に触れ、囁いた。
「いい狩人ね。これからは私と共に」
意識が薄れた。目を閉じると、視界に広がったのは吹雪の中の森。四肢が軽い。牙を持ち、雪を蹴って走れる。
歓喜と恐怖が混ざる。俺は俺ではなくなりつつあった。
――気がつくと、朝だった。
小屋は静まり返り、女の姿も鹿の死骸も消えていた。
俺は生き延びたのか。そう思い、安堵の息を吐いた瞬間、胸の奥で鋭い痛みが走った。
口から吐き出した息が、霧ではなく白毛に変わる。細い毛が空気中に漂い、床へと降り積もる。
足元には蹄の影があった。自分の足ではない。
外から仲間の呼ぶ声がした。
「おい! 無事か!」
戸を叩く音。三度、間を置いてまた三度。
返事をしたいのに、喉から漏れるのは獣の吐息だけ。
次の瞬間、戸が開いた。
吹雪を背負い、仲間たちが踏み込んでくる。
彼らの顔を見た途端、腹の底で飢えが疼いた。
鼻先に広がる血と肉の匂いに抗えず、俺は跳んだ。
「化け鹿だ!」
銃声。
胸を撃ち抜かれ、白毛が雪に舞った。
倒れゆく視界に、仲間たちの安堵と困惑の表情が揺れていた。
誰も知らない。撃ち殺した“獣”が、共に狩りをしてきた仲間であることを。
雪はすべてを覆い隠す。
俺が誰だったかも、何を奪い、何に奪われたのかも。
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