古本屋の奥の部屋は、表の埃っぽい匂いとは違い、妙に湿っていた。蛍光灯が一本だけ、骨のように白く光っている。
大学の帰り、俺はここでアルバイトをしている。
最初は何人か学生バイトがいたが、気づけばみんな来なくなった。
「就活が忙しいらしい」「体を壊したんだと」――店長はそう言っていた。
気さくで世話焼きな人だ。弁当を分けてくれたり、「テスト前は休め」と気を遣ってくれたりする。
俺は素直にそういうものだと受け入れていた。疑う理由なんてなかった。
ただ一度だけ、妙なことを言われた。
「奥の部屋にある大事な本には触るなよ。あれは人を惑わせる」
冗談めかして笑っていたが、目だけは笑っていなかった。
それでも俺は深く考えなかった。
その日、奥の棚で紐で固く縛られた古いノートを見つけた。
背表紙にはかすれた文字で「自動書記」とある。
店長の言葉が一瞬よぎったが、好奇心の方が勝った。
紐を解いて開くと、白紙のはずのページに赤い文字がにじんだ。
――なくした財布はポケットに戻っている。
まさかと思いながら探ると、確かになくしたはずの財布が入っていた。
二度目に開いたときは、試験のヤマが書かれていた。
その通りに覚えた問題が出題され、俺は楽に点を取れた。
三度目はこうだ。
――明日、好きな子と二人きりになれる。
偶然が重なり、現実になった。笑いが止まらなかった。
読むたびに良いことが起きる。
小さな幸運から大きな幸福へと膨らんでいく。
これがあれば人生は思い通りにできる――そう信じた。
けれど持ち帰る気にはならなかった。
もし店長に見つかれば叱られるに違いない。
あの人の気のよさを裏切るのは嫌だった。
だから俺は、いつもこの奥の部屋でだけノートを開いた。
だがある夜、赤字は不意に冷たく変わった。
――俺へ。後ろを見ないで。
蛍光灯が揺れた。床下から湿った吐息が滲み出す。
紙を舐めるような音。背筋が凍る。
それでも指は止まらなかった。
幸福の余韻に、抗えなかった。
「おーい、大丈夫か」
扉の向こうから店長の声がした。
救われた気がして、慌てて扉を開けた。
懐中電灯の光を手に、店長が心配そうに覗き込む。
「暗かったろ。大丈夫か?」
相変わらず気のいい声。
だが机の上のノートが勝手に開き、赤い字が浮かんだ。
――また一冊、頁が厚くなる。
意味がわからず固まる俺に、店長が歩み寄った。
「……店長、この本……なんなんですか」
「触ったんだな」
低い声に変わった。
「どうして……俺にこんな未来がわかるんですか」
店長はにやりと笑い、答えた。
「簡単さ。お前らが書いた未来を、俺が読んでるだけだ」
「書いた? 俺が?」
「財布も、試験も、恋も――全部お前が書いた。血でな」
床下から白く裂けた手が伸び、俺の足首を掴んだ。呻き声が重なる。
「これ……誰の……」
「お前の先輩たちさ。みんな同じように幸せをもらって、最後は“書き手”になった」
「じゃあ……店長は、どうして取り込まれないんですか」
「俺は読むだけだからだよ」店長の目が闇に光った。
「書くのは若いお前ら。未来は全部ここに積もっていく。俺はその頁を読んで、先回りしてるだけ。血は流さない。俺は喰われない」
気のいい顔のまま、言葉は底冷えするほど冷たかった。
肩に置かれた手が骨に染み込む。
指が勝手に赤字を刻む。

――助けて。
――いやだ。
――やめろ。
書けば書くほど赤は濃く、頁は増える。
最後の一枚に、すでにこう書かれていた。
――○○(俺の名前)。ここで交代。
犠牲者の手が一斉に俺を引きずり込む。
皮膚が裂け、紙の繊維に変わっていく。
「安心しろ。すぐに慣れる。みんなそうだった」
店長は優しげに微笑んだ。
視界が赤に染まる直前、声だけが残った。
「次は大学の掲示板にでも貼るか。“本好きの学生歓迎”ってな」
扉が静かに閉じ、奥の部屋は再び沈黙した。
机の上には新しい表紙が生まれ、そこには俺の名前と赤黒い染みが滲んでいた。
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