午後三時。
今日も始まった。
コンコン、コンコン。
規則正しく、壁を叩く音。
美奈子は洗い物の手を止めて、台所の壁に耳を押し当てた。薄っぺらい壁の向こうから、確実に聞こえてくる。
コンコン、コンコン。
三回叩いて、五秒の間。また三回。
隣の部屋からだった。203号室。
「また始まったわ」
美奈子は溜息をつきながら、夫の帰りを待つことにした。この音について、誰かに相談したかった。
夜、隆が帰ってきた時、美奈子は昼間の出来事を話した。
「隣の部屋からなのよ。毎日三時になると、壁を叩く音がするの」
隆は疲れた顔でビールの缶を開けながら答えた。
「工事じゃないのか?」
「工事にしては規則正しすぎるのよ。それに、毎日同じ時刻だから」
「そうか」
隆は興味なさそうにテレビに目を向けた。美奈子はもどかしい気持ちになった。
翌日、午後三時。
コンコン、コンコン。
また始まった。今度は壁に耳を当てて、じっと聞いた。
三回叩く音の後に、かすかに何かが聞こえる。まるで、誰かが苦しそうに呻いているような。
美奈子は慌てて壁から離れた。気のせいかもしれない。でも、確かに人の声のようだった。
その夜、美奈子は隆に再び話した。
「隣の人、何か困ってるんじゃないかしら。助けを求めてるみたいな音がするの」
隆は面倒そうに答えた。
「管理人に聞いてみたら?」
翌朝、美奈子は管理人の田中さんを訪ねた。
「203号室の件でお聞きしたいことが」
田中さんは首をかしげた。
「203号室?あそこ、ずっと空いてますよ」
美奈子の背筋に冷たいものが走った。
「空いてるって、いつから?」
「半年前にお住まいの方が亡くなってから、ずっと。なかなか借り手が見つからなくて」
美奈子の顔が青ざめた。
「亡くなったって、どういう」
「心筋梗塞でした。午後に倒れて、発見されたのは三日後でしたね」
美奈子は慌てて自分の部屋に戻った。午後三時まで、あと一時間。
時計を見つめながら、美奈子は震えていた。空き部屋から聞こえる音。亡くなった人の声。
午後三時。
コンコン、コンコン。
音が始まった。美奈子は壁に近づいた。今度ははっきりと聞こえた。
「たすけて」
かすれた声だった。
「だれか、たすけて」
美奈子は震え上がった。でも、何かしなければ。この人は助けを求めている。
美奈子は壁を叩き返した。
コンコン、コンコン。
すると、向こうからの叩く音が激しくなった。
ドンドンドン!
「聞こえるの?聞こえるのね!」
向こうからの声が興奮していた。
「お願い、助けて!ここから出して!」
美奈子は管理人に電話した。
「203号室を開けてください。中に人がいます」
田中さんは困惑したが、美奈子の必死さに押し切られて、合鍵を持って来た。
二人で203号室の前に立った。田中さんが鍵を開ける。
ドアが開いた。
部屋の中は、がらんとしていた。家具も何もない。
「誰もいませんよ」
田中さんが呆れたように言った。
美奈子は部屋の中を見回した。確かに誰もいない。でも、確かに声が聞こえたのに。
その時だった。
「ありがとう」
美奈子の背後から声がした。振り返ると、誰もいない。
「やっと、出られた」
声は美奈子の耳元で囁いた。
田中さんには聞こえていないようだった。
美奈子は慌てて自分の部屋に戻った。
午後三時を過ぎても、壁を叩く音はしなかった。
「よかった。あの人、成仏できたのね」
美奈子はほっと安堵した。
その夜、隆が帰ってきた時、美奈子は一部始終を話した。
「それで、音は止んだのか?」
「ええ。もう聞こえないわ」
隆は安心したように頷いた。
「よかったじゃないか」
翌日、午後三時。
静寂が続いていた。美奈子は安心していた。
午後四時。
コンコン、コンコン。
美奈子は凍りついた。音が聞こえる。でも、今度は壁からではない。
コンコン、コンコン。

音は天井から聞こえていた。真上の部屋、303号室から。
美奈子は震え上がった。そして気づいた。
昨日、203号室で囁いた声の意味を。
「やっと、出られた」
出られた。部屋から出て、どこへ行ったのか。
コンコン、コンコン。
天井からの音は、確実に美奈子の真上から聞こえていた。
その瞬間、美奈子は理解した。
助けたと思ったその人は、部屋から出ることはできた。
でも、この建物から出ることはできないのだと。
そして今、その人は一階ずつ、上へと移動しているのだと。
コンコン、コンコン。
音は止まらなかった。
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