鈴の音が止まない。
社殿裏の薄暗がりで、美咲は膝を抱えて震えていた。なぜこんなことになったのか。
美咲は二十二歳。三年前に亡くなった祖父の後を継いで、この稲荷神社の宮司になった。本来なら男性が継ぐべき立場だが、跡継ぎがいない。両親は都市部で暮らし、戻る気はない。美咲が継がなければ、三百年続いたこの神社は廃社になってしまう。
一人での神社運営は想像以上に大変だった。祭事の準備、参拝者の対応、境内の清掃、全てを一人でこなさなければならない。特に夜の見回りが辛い。古い神社特有の軋む音や、風で揺れる木々の音が、いつも彼女を不安にさせる。
三か月前、唯一の理解者だった先輩巫女の千鶴さんが突然亡くなった。心臓発作だった。千鶴さんは美咲の祖父の時代から神社を支えてくれていた。彼女がいなくなってから、美咲は本当に一人になってしまった。
今夜も夕刻の参拝者が帰った後、いつものように境内を清掃していた。そして社務所に戻ろうとした時、社殿の裏手で青白い光を見つけたのだ。
狐火。
祖母から聞いた昔話を思い出す。狐火は人を化かし、魂を奪うという。この神社は稲荷神を祀っている。狐の石像が境内のあちこちに配置され、参拝者は皆、狐に油揚げを供えていく。もしかすると、本物の狐の霊がいるのかもしれない。
「誰かいるのですか」
勇気を振り絞って声をかけた瞬間、光が消えた。代わりに現れたのは、真っ白な狐の面をつけた人影だった。白い着物を着ているが、裾が地面から浮いている。
人ではない。
美咲は走った。
社殿を回り込み、本殿の裏手に身を隠す。息を殺していると、ゆっくりとした足音が近づいてくる。カラン、カラン、と何かが地面を叩く音も聞こえる。
「みさき…」
低い声が名前を呼んだ。美咲の背筋が凍る。その声は聞き覚えがある。三か月前に亡くなった前任の巫女、千鶴さんの声だった。
「千鶴さん?」
思わず声に出してしまう。足音が止まった。しばらくの静寂の後、くすくすと笑い声が響く。
「会いたかった」
狐の面をつけた千鶴さんが、本殿の角からゆっくりと現れた。手には神楽鈴を持っている。白装束に緋袴、生前と同じ巫女装束だが、どこか違和感がある。動きがぎこちなく、首が不自然に傾いている。

「千鶴さん、どうして…」
「寂しかったの。一人でここにいるのが」
千鶴さんは鈴を振る。チリンチリンと音が響く度に、周りの狐火が明滅する。
「でも大丈夫。もう一人じゃない」
美咲は立ち上がろうとしたが、足が動かない。見下ろすと、自分の足首に赤い糸が巻きついている。糸の先は千鶴さんの手に握られていた。
「千鶴さん、やめて」
「ずっと一緒にいましょう。この神社を、二人で守りましょう」
千鶴さんが面を外した。
その顔には眼球がなく、空洞の奥で小さな狐火が揺らめいている。口元は耳まで裂けて、牙のような白い歯が並んでいる。
美咲は叫んだ。
恐怖で全身が震える。頭が真っ白になり、心臓が破裂しそうなほど激しく鼓動する。千鶴さんではない。あれは千鶴さんの皮を被った化け物だ。
パニック状態の美咲は無我夢中で足首の糸を引きちぎろうとした。爪を立て、歯で噛み切ろうとする。糸が手に食い込んで血が滲むが、構わない。
その時、赤い糸がふっと緩んだ。
今だ。美咲は転がるように立ち上がり、死に物狂いで走った。息も絶え絶え、涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃになりながら、ただひたすら社務所を目指す。明かりが見える。あそこまで逃げれば、きっと助かる。
「逃げないで」
背後で千鶴さんの声がする。だが美咲は振り返らない。社務所のドアノブに手をかけた時、ふと気づく。
自分の影が二つある。
月明かりに照らされた地面に、美咲の影と、その隣にもう一つ、狐の耳をした影が寄り添っている。
ゆっくりと振り返ると、千鶴さんが微笑んでいた。今度は普通の、生前の優しい顔で。
「お疲れさま、美咲ちゃん」
「千鶴さん…」
安堵が胸を満たす。きっと悪い夢だったのだろう。千鶴さんは生きている。
「心配かけてごめんね。でも、もう大丈夫よ」
千鶴さんが手を差し伸べる。美咲は迷わずその手を握った。
温かい。生きている人の手だ。
「よかった、本当によかった」
美咲は泣いた。千鶴さんが死んだと聞いた時の悲しみ、一人でこの神社を守らなければならない不安、全てが嘘だったのだと思った。
「ありがとう、美咲ちゃん」
千鶴さんが微笑む。その時、美咲は気づいた。
千鶴さんの影が、自分と同じ方向を向いている。
月は美咲の背後にある。千鶴さんの影は、美咲と反対側にできるはずだ。
「千鶴さん…?」
千鶴さんの笑顔が歪む。口角が耳まで裂け、眼球が溶けて流れ落ちる。
「もう遅いわ」
美咲は自分の手を見た。握っていた千鶴さんの手が、いつの間にか狐の前足になっている。毛むくじゃらで、爪が食い込んで血が滲んでいる。
鏡のような社務所の窓ガラスに、自分の姿が映った。
巫女装束を着た美咲の顔に、白い狐の面がかぶさっている。
面の下から自分の声が聞こえた。
「ずっと一緒にいましょう」
美咲は面を外そうとしたが、指が動かない。いつの間にか手は狐の前足になり、足も後ろ足に変わっている。
千鶴さんがくすくすと笑う。
「交代よ、美咲ちゃん」
美咲の視界がぼやける。意識が薄れていく中で、自分の身体に異変が起きているのを感じた。
まず指先がちくちくと痛み始めた。見下ろすと、爪が伸びて鋭くなっている。人間の爪ではない。獣の爪だ。
「いや…いやよ…」
声を出そうとしたが、のどの奥から獣のような唸り声しか出ない。舌が長くなり、牙が生えてきている。
足の感覚が変わる。つま先立ちになり、踵が浮き上がる。関節が逆向きに曲がり始める。人間の足から、四足歩行の動物の後ろ足へと変わっていく。
「助けて…」
最後の人間らしい言葉を発した瞬間、顔に何かが貼り付いた。狐の面だ。外そうとしたが、もう指は動かない。前足になった手では、細かい作業は不可能だった。
面が顔に食い込んでいく。皮膚と一体化していく感覚が恐ろしい。美咲の人間としての顔が、狐の面の下に封じ込められていく。
鏡のような社務所の窓ガラスに映る自分の姿を見た。
白い毛に覆われた四足の動物。狐だった。
だが意識は美咲のままだった。人間の心を持ったまま、狐の身体に閉じ込められている。動きたくないのに身体が勝手に動く。まるで操り人形のように。
千鶴さんがくすくすと笑う声が頭の中で響く。
「私もそうだったのよ。最初は辛いけれど、すぐに慣れるわ」
美咲は理解した。千鶴さんも同じ目に遭ったのだ。人間の心を持ったまま、狐に変えられた。そして次の犠牲者を作るために、美咲を狙ったのだ。
「でも安心して。一人じゃないから」
美咲の狐の身体が立ち上がる。意志とは関係なく、足が動き始める。
境内では新しい巫女が掃除をしていた。美咲と同じ年頃の、見知らぬ少女だった。きっと美咲が行方不明になった後、急遽派遣されたのだろう。
「やめて…」
心の中で叫んだが、声は出ない。狐の身体は少女に向かって歩いていく。
美咲は自分の意志で動くことができない。ただ見ているだけだ。次の犠牲者を作る場面を、加害者の視点で見ることしかできない。
チリンチリンと、風もないのに神楽鈴が鳴る。
美咲は立ち上がり、ゆっくりとその少女に向かって歩き始めた。寂しかったのだ。一人でここにいるのが。
狐火が青白く燃え上がる。
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