廃村への道は、雑草が腰の高さまで伸びていた。
「マジでこんなとこ来んの?」
大輔が文句を言いながら、蜘蛛の巣を払いのける。その後ろを、健太、美咲、そして俺が続いた。
夏休み最後の冒険だった。地元で有名な「覗くと死ぬ井戸」を確かめに来たのだ。ネットの心霊スポット掲示板に、この村の井戸のことが書いてあった。「覗いた者は一週間以内に必ず死ぬ」と。
「ただの都市伝説だって」
健太が笑う。俺もそう思っていた。
村は想像以上に荒れ果てていた。倒壊寸前の家屋が並び、屋根は崩れ、壁には蔦が這っていた。誰も住んでいない。誰も来ない。静寂が重く、空気が淀んでいた。
井戸は村の中心にあった。
古びた石組みの井戸。直径は一メートルほど。周囲に柵はなく、ぽっかりと口を開けている。縁の石は黒ずみ、苔が生えていた。
「これか」
大輔が井戸を覗き込もうとする。
「やめときなよ」
美咲が止める。だが大輔は笑って首を振った。
「何が死ぬだよ。ただの井戸じゃん」
そう言って、大輔は井戸の縁に手をかけ、中を覗き込んだ。
五秒ほど黙っていた大輔が、顔を上げる。
「暗くて何も見えねえ」
大輔は肩をすくめた。何事もなかった。俺たちは安堵の息を漏らす。
「な? 都市伝説だって言ったろ」
健太も覗き込んだ。続いて美咲も。
「本当に何もないね」
美咲が拍子抜けした顔で言う。
俺も覗いた。
井戸の中は、闇だった。底が見えないほど深い、濃密な闇。冷たい空気が這い上がってきて、顔に纏わりついた。かすかに水の匂いがした。
それだけだった。
「帰ろうぜ。無駄足だった」
大輔が歩き出す。俺たちも後に続いた。
村を出るまで、誰も何も言わなかった。
家に帰ってから、それは始まった。
耳元で、ささやく声が聞こえた。
「見たな」
振り返る。誰もいない。
「見たな」
また聞こえる。右耳の奥で、湿った声がささやく。心臓が早鐘を打つ。
それは止まらなかった。
寝ているとき、食事中、学校の授業中。常に耳元でささやき続ける。
「見たな。見たな。見たな」
三日目、大輔から電話があった。
「お前も聞こえるか? あの声」
震える声だった。いつもふざけている大輔が、泣きそうな声で言った。
「聞こえる」
俺は答えた。
「俺、もう限界だ。ずっと聞こえるんだよ。眠れねえ」
健太も、美咲も、同じだった。四人全員が、あの声に苦しめられていた。
四日目の夜、大輔が首を吊った。
自宅の部屋で、ベルトを使って。遺書はなかった。
葬式で、健太と美咲に会った。二人とも痩せ細り、目の下に隈ができていた。

「声、まだ聞こえる」
健太が虚ろな目で言った。
「私も」
美咲が泣きながらうなずく。
「見たな。見たな。見たな」
葬式の間も、声は止まらなかった。
俺たちは必死に調べた。どうすれば止まるのか。ネットを漁り、図書館で郷土資料を読み、神社を訪ねた。
そして見つけた。
「井戸に謝りに行けば許される」
古い掲示板の書き込みだった。投稿者は匿名だったが、具体的に書いてあった。「井戸の前で謝罪すれば、呪いは解ける。ただし覗いてはいけない」
希望が見えた。
俺たちは再び廃村へ向かった。六日目の昼だった。
井戸の前に立つ。あの日と変わらない、黒ずんだ石組みの井戸。
「ごめんなさい」
美咲が井戸に向かって頭を下げる。健太も続いた。
「すみませんでした」
俺も頭を下げた。
その瞬間、声が止んだ。
耳元のささやきが、ぴたりと消えた。
「止まった……!」
健太が叫ぶ。美咲が泣き崩れる。
「助かった……」
安堵の涙が溢れる。俺たちは抱き合って泣いた。
大輔は死んだが、俺たちは助かった。そう思った。
帰り道、美咲が言った。
「大輔にも教えてあげたかったね」
その言葉に、胸が締め付けられる。
家に着いて、シャワーを浴びた。服を着替え、ベッドに横になる。久しぶりの静寂だった。声のない世界が、こんなに穏やかだとは思わなかった。
眠りに落ちる直前、耳元でささやきが聞こえた。
「見たな」
目を見開く。
「見たな。見たな。見たな。見たな」
声が戻ってきた。以前より多く、以前より近く、以前より執拗に。
携帯が鳴った。健太からだった。
「また聞こえる! なんでだよ!」
健太の絶望した声。
美咲からもメッセージが来た。「助けて」とだけ書いてあった。
謝罪は無意味だった。いや、違う。
俺たちは井戸の前で、もう一度、井戸の中を見てしまったのだ。
頭を下げたとき、無意識に視線を井戸に向けた。ほんの一瞬、井戸の縁が視界に入った。それだけで十分だった。
二度目に覗いた者は、一週間を待たずに死ぬ。
掲示板の続きには、そう書いてあった。
七日目の朝、健太が自宅の浴槽で溺死体で見つかった。水深三十センチの浴槽で、どうやって溺れたのか誰にも分からなかった。
美咲は同じ日の午後、マンションから飛び降りた。
夜、俺は自分の部屋にいた。
「見たな。見たな。見たな。見たな。見たな」
無数の声が、頭の中を埋め尽くす。
窓の外を見る。月が出ていた。
部屋の隅に、黒い影が立っていた。
井戸の形をした影が、じっとこちらを見ていた。
いや、見ているのではない。
俺を、呑み込もうとしていた。
翌朝、母が部屋に入ってきたとき、俺はもういなかった。
ベッドには誰も寝ていなかった。窓は閉まっていた。ドアも施錠されていた。
部屋には、湿った水の匂いだけが残っていた。
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