お盆の夜祭りは、笛や太鼓の音が町全体を揺らしていた。提灯の明かりが暖色に染めた露店の間を、父親の田中は七歳の娘・めぐみの手を握りながら進んでいた。
めぐみは綿菓子をかじりながら、きょろきょろと周囲を見回っている。その目は輝いていた。父親も久しぶりに娘と二人きりで祭りに来られた喜びを噛み締めていた。母親は入院中だ。だからこそ、娘を喜ばせたかった。
「あ、お父さん、あれ」
めぐみが指した先に、見慣れない露店があった。古い白いテントの奥に、薄暗い店の中が見える。店主らしき人影は奥に見えるだけで、表情は判然としない。
露店の前には、木彫りの面がいくつか吊るされていた。能面のような古風なものや、般若の鬼面、そして狐面。どれもが異様な程に精巧だった。
「この狐面、新しい作品です」
いつの間に老人が前に出てきたのか、田中は驚いた。皺くちゃの顔で笑う売人。その目は祭りの提灯の光に照らされても、暗くて見えない。
「いい顔でしょう。このお子さんに、ぴったりだ」
老人がめぐみを見る。めぐみも狐面を見つめている。木彫りの狐は、口元が薄く笑っているように見えた。
「こういう古い面は、文化的価値がありますから、お祭りで被るのはいいですが、家に持ち帰るのはお勧めしません。運ぶのが大変ですし」
田中は理由なく、そう言っていた。自分でも、なぜそんなことを言ったのか分からない。頭の片隅に、警告めいた感覚があったのだ。
「わかりました。ありがとうございます」
老人は何も言わず、ただ笑ったままだった。
田中はめぐみの手を引いて、その露店を離れた。
祭りはまだ続いていた。やがて夜は更け、提灯の灯も弱まってきた。父娘は帰路についた。
自宅に戻ると、田中はめぐみをお風呂に入れさせ、布団に寝かせた。娘はすぐに眠った。
朝になった。田中は仕事に出かける前に、娘の様子を見に行った。
めぐみはまだ寝ている。その顔には、木彫りの狐面が被さっていた。

田中の心臓が激しく跳ねた。どうしてあの面がここに?買ってもいないはずだ。
「めぐみ、起きなさい。その面を外しなさい」
娘は目を開かない。だが体が起き上がった。動きは、不自然だ。まるで糸で操られているように。
「お父さん、いい朝ですね」
その声は、娘の声ではなかった。古風で、力強く、年老いた女のような声だ。
「めぐみ!面を外しなさい!」
田中は娘に近づき、狐面を掴もうとした。だが指が触れた瞬間、電撃が走ったように身体が痺れた。
「これはね、お爺さん、外せません。もう外せないんです」
めぐみの体が、田中の方を向いた。面の目は、空洞のはずなのに、何かが見ている気がした。
「あなたも、欲しくないですか。私の顔」
田中は後ろに転がるように下がった。頭が冷たくなっていく。これは悪夢だ。すぐに覚める。そう思おうとした。
だが現実は続いた。
その日から、めぐみは学校に行く。だが朝、登校する時の娘の顔は見えなかった。面を被ったままで出かけたのだ。
帰ってくるときも、面は外れていない。
「めぐみ、その面を外しなさい」
田中は何度も言った。だが娘の返事は同じだ。
「外せません。もう外せないんです」
放課後、田中は学校に電話をかけた。担任の先生は首をかしげた。
「いえ、今日めぐみさんは来ていません。欠席です」
「違う、さっき帰ってきたばかりだ」
電話の向こう、沈黙。その後、先生は言った。
「申し訳ありません。確認に時間をいただきたいのですが…」
だが電話は切れた。
帰ってくると、めぐみは座ったまま。面の下で何が起こっているのか、父親には分からない。
食事をするとき、面は顔にしっかり密着したままだ。鼻孔と口孔から、ゆっくりと食べ物が吸い込まれていった。それを見つめるしかない。
言葉遣いは日に日に古くなった。「お父さん」という呼び方も失われ、「爺さん」と呼ぶようになった。仕草も、話し方も、子どもではなくなっていった。
田中は病院に相談した。医者は首をかしげた。「面が肌に密着しているのに、剥がれないというのは…」検査しても、何の異常もないという。面の周囲には、どんな隙間もなく、まるで肌と一体化しているかのようだった。
祭りから一週間が経った。
その夜、田中は寝られずに、娘の様子を見に行った。
めぐみは、座ったまま床の間を見つめていた。面は静かに、その場にあった。
「この家は、いい家ですね。このままいただきます」
静かな、だが冷徹な声。
「お母さんも、いい体ですね。病院にいるお母さん」
田中は息ができなくなった。
「いえ。もう、いません」
その言葉が何を意味するのか、田中は理解したくなかった。だが理解してしまった。
午後、田中は病院に向かった。その途中、駅前で立ち止まった。
通りに人がいない。朝から時間が経っているのに、駅前のこんなに賑やかな場所に、人がいない。
スマートフォンで時刻を確認した。正午だ。だがどこにも誰もいない。
車も走っていない。家の窓も閉ざされている。
町全体が、人を失っていた。
病院にたどり着くと、玄関は静かだった。通常なら受付の職員がいるはずだ。いない。
廊下は静まり返っていた。普通なら、この時間も看護師や患者が行き来しているはずだ。だが誰もいない。
足音だけが、異様に大きく響く。
一人の看護師が現れた。田中に気づくと、顔を伏せて言った。
「誰も来ていないんです。昨晩から、誰も」
田中は掴みかかるように看護師の腕を握った。
「何言ってるんですか。患者は?医者は?看護師は?」
「いません。みんな、消えました」
看護師の声は震えていた。その看護師も、今この瞬間、消えてしまった。まるで最初からそこにいなかったかのように。
「待て。待ってくれ」
だが廊下には、田中だけが残った。
田中は看護師がいた場所を見つめた。足跡すら残っていない。その看護師は本当にここにいたのか。だが田中は確かに、その腕の温度を感じた。
病室の中を見ると、妻のベッドに遺体が横たわっていた。看護師の姿はない。医者の姿もない。この病院全体から、妻を除く全員の姿が消えてしまっていた。
田中は医師を呼び、誰かを呼んだ。だが誰も来ない。
「こんなはずがない」
つぶやきながら、廊下を歩く。各病室を見ると、患者のベッドには誰もいない。ナースステーションも、受付も、全て空っぽだ。
昨晩…妻が亡くなったはずだ。なぜ誰もここにいないのか。なぜ妻だけが、このベッドの上に?
その疑問は、やがて別の恐怖に変わった。
妻だけが残されているということは、妻も消えるということなのか。それとも、妻は最初から、この世界の一部ではなくなったということなのか。
田中は自宅に戻った。
娘は、座ったままだった。面は、その顔に。
「お父さん、やっと来ましたね」
古い、女の声。
「これからは、ずっと一緒ですね」
田中は逃げようとした。だが体が言うことを聞かない。足が動かない。
外に出ると、自分たちを見ている人が一人もいないことに、ようやく気づいた。
世界から自分たちを見守る誰かが、全員いなくなったのだ。
誰も来ない。誰も助けられない。
その先、何が起こるのか、田中は知りたくなかった。だがそれも、もう選べないのかもしれなかった。
面は、二つに増えていた。田中の枕の傍に、もう一つ。
古風な、笑った表情の、狐面。
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