私が新しい学校に転校したのは、九月の終わりだった。
クラスメイトたちは優しかった。休み時間になると、何人かが席に寄ってきて話しかけてくれた。昼休みには女子グループが一緒に食べようと誘ってくれて、放課後には図書委員の男子が校内を案内してくれると言った。
「じゃあ、最後に視聴覚室を見せるね」
彼は三階の廊下の突き当たりにある、重い扉の前で立ち止まった。
「ここ、あんまり使わないんだけど」
扉を開けると、カビ臭い空気が流れ出てきた。薄暗い部屋の中には、古びたプロジェクターと並んだパイプ椅子。奥の壁には黒板があり、その横に小さな機材室のドアが見えた。
「一応、映画鑑賞とかで使うことになってるんだけどね」
彼は照明のスイッチを探したが、見つからなかったようだ。廊下の明かりだけが、部屋の入口付近をぼんやりと照らしていた。
その時、機材室のドアがゆっくりと開いた。
中から、女子生徒が一人出てきた。制服を着ている。この学校の生徒だ。彼女は私たちを見ると、にっこりと笑った。

「あ、新しい転校生?」
「え、ええ」
私は答えた。彼女の笑顔は明るかったが、なぜか目が笑っていなかった。
案内してくれていた男子が、固まったように動かなくなった。顔から血の気が引いていく。
「君、誰? 何してたの?」
声が震えていた。
「機材の整理」
女子生徒は軽く答えると、私の方へ歩いてきた。近づくにつれて、彼女の制服が少し古びていることに気づいた。生地が色褪せていて、襟の部分がほつれている。
「ねえ、一つ教えてあげる」
彼女は私の耳元で囁いた。
「この学校でね、絶対にやっちゃいけないことがあるの」
「な、何?」
「放課後、一人で視聴覚室に来ちゃダメ。来たら、帰れなくなるから」
彼女の息が、氷のように冷たかった。
男子生徒が震える声で言った。
「嘘だろ...制服、その制服...」
女子生徒はくすくすと笑うと、私たちの脇をすり抜けて廊下へ出て行った。足音が遠ざかっていく。
「ごめん、もう帰ろう」
男子生徒は蒼白な顔で、私の腕を引いた。階段を降りながら、彼は何度も後ろを振り返った。まるで、追いかけてくるものを警戒するように。
玄関まで来て、ようやく彼は息を吐いた。
「あのさ、今日のこと、誰にも言わない方がいい」
「でも、あれって...」
「言わない方がいい」
彼は繰り返すと、足早に帰って行った。
その夜、家に帰ってからも、あの女子生徒のことが頭から離れなかった。あの冷たい息。色褪せた制服。そして、笑っていない目。男子生徒が見せた、あの恐怖に歪んだ顔。
翌日、私は意を決して、クラスで隣の席の女子に声をかけた。彼女は昨日、昼休みに一緒にご飯を食べた子だ。休み時間、周りに誰もいないのを確認してから聞いた。
「ねえ、視聴覚室のこと、知ってる?」
彼女は箸を持つ手を止めた。
「どうして?」
「昨日、案内してもらった時に、変な女の子に会って」
「女の子?」
「機材室から出てきた。制服着てたんだけど、古くて、襟がほつれてて」
彼女の顔が強ばった。
「それ、もしかして...」
声を潜める。
「十年前に亡くなった先輩かも。視聴覚室で首を吊ったって」
背筋が凍った。
「本当?」
「写真、見たことある。昔の卒業アルバムに載ってた。たまに視聴覚室に出るって、ずっと噂になってるの」
だから、あの男子生徒は怯えていたのだ。彼も、その噂を知っていたのだろう。
その日から、私は視聴覚室に近づかないようにした。三階の廊下を通る時も、あの突き当たりの扉は見ないようにした。
でも、一週間後。
放課後、図書室で本を読んでいた私は、返却期限を過ぎた本があることに気づいた。今日中に返さなければならない。急いで図書室を出ると、もう校舎はほとんど人気がなかった。
図書室は三階にあった。返却ボックスに本を入れて、階段へ向かおうとした時。
廊下の突き当たり、視聴覚室の扉が、わずかに開いていた。
中から、微かに声が聞こえる。
「助けて」
女の声だ。
「誰か、助けて」
私は足が竦んだ。行ってはいけない。あの幽霊の罠かもしれない。
でも、声は切羽詰まっていた。本当に誰かが困っているのかもしれない。
「お願い、助けて」
私は震える足で、視聴覚室へ近づいた。
扉を開けると、あの薄暗い空間が広がっていた。プロジェクターとパイプ椅子。そして、機材室のドア。
ドアの隙間から、光が漏れていた。
「助けて」
声は機材室から聞こえてくる。
私はゆっくりとドアに近づき、ノブに手をかけた。冷たかった。
ドアを開けると、そこには。
血まみれの女子生徒が、倒れていた。
制服は真新しい。今の時代のものだ。彼女は頭から血を流していて、私を見上げた。見覚えがある。二年生の、バレーボール部の子だ。廊下ですれ違ったことがある。
「助けて、後ろから突き落とされて」
彼女は震える手で、機材室の奥を指差した。そこには、脚立が倒れていた。高い棚から物を取ろうとして、足を滑らせたのだろうか。それとも。
私は携帯を取り出して、救急車を呼んだ。彼女の傷を確認しようとした時、背後で扉が閉まる音がした。
振り返ると、視聴覚室の扉が閉まっていた。
そして、あの女子生徒が立っていた。色褪せた制服の。
「言ったでしょ。来ちゃダメだって」
彼女は笑った。
「これで、あなたも私たちの仲間」
私は叫んで、視聴覚室のドアへ走った。ドアノブを掴んで回したが、開かない。鍵がかかっている。
「開けて! 開けてよ!」
背後から、足音が近づいてくる。
その時、ドアが開いた。
廊下に飛び出すと、そこには用務員のおじさんが立っていた。
「どうした、そんなに慌てて」
「中に、怪我してる人が!」
用務員は視聴覚室を覗き込んだが、首を傾げた。
「誰もいないぞ」
私も中を見た。
確かに、誰もいなかった。機材室のドアも閉まっている。血の跡もない。倒れていたはずの脚立も、元の位置にきちんと立てかけられていた。
「幽霊でも見たか?」
用務員は笑った。
「この部屋、そういう噂があるからな。もう帰りなさい」
私は震えながら頷いて、階段を降りた。玄関を出て、校門をくぐる。もう二度と、あの部屋には近づかない。
助かった。ただの幻覚だったんだ。
家に帰る途中、コンビニで飲み物を買った。レジで財布を出した時、店員が不思議そうな顔をした。
「お客さん、その制服」
「え?」
「うちの近くの学校じゃないですよね、それ」
私は自分の制服を見下ろした。
紺のブレザー。グレーのスカート。
いつもの制服だ。
「これ、近くの学校の制服ですけど」
店員は首を傾げた。
「いや、この辺の学校は緑のブレザーですよ。紺なんて」
私の心臓が、激しく鳴った。
家に帰って、鏡を見た。
制服は、確かに紺色だった。
でも、よく見ると。
襟の部分が、ほつれていた。
母が夕食の支度をしながら言った。
「転校先、もう慣れた? 明日で一週間でしょ」
「え? 一週間?」
「そうよ。来週の月曜で」
私は混乱した。今日は金曜日のはずだ。転校してから、もう二週間経っている。
「お母さん、今日は何日?」
「九月三十日よ」
九月三十日。
それは、私が転校した日だ。
窓の外を見ると、夕暮れの空が広がっていた。
でも、その空は、どこか色が違って見えた。
部屋に戻って、スマホを確認した。
カレンダーアプリを開くと、九月三十日。
でも、登録されているはずの友達の連絡先が、一つもなかった。
クラスメイトの名前も、先生の名前も、全部消えていた。
代わりに、知らない名前がずらりと並んでいた。
そして、一番上に。
「視聴覚室の住人たち」
というグループ名があった。
メンバーは十五人。
最後に追加されたのは、今日。
私の名前だった。
翌日のログには、もう一人。
「バレーボール部・二年」
という名前が追加される予定になっていた。
鏡をもう一度見た。
制服の襟のほつれが、さっきより大きくなっていた。
そして、鏡の中の私の目が。
笑っていなかった。
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