会社を辞めたのは三週間前だった。
理由は聞かれたくない。ただ、どこか遠くへ行きたかった。誰もいない場所で、何も考えずに過ごしたかった。
予約サイトで見つけた「民宿・花山荘」は、山奥にあった。評価は星三つ。コメントは一件もない。写真もぼやけていて、建物の全容すらよく分からなかった。だが、それがいい。こんな宿なら、誰にも会わずに済むだろう。
携帯の電波が途切れたのは、山道に入って三十分ほど経った頃だった。
カーナビも使えない。俺は道路脇の古びた看板だけを頼りに、さらに奥へと車を走らせた。
日が傾きかけた頃、ようやく目的の建物が見えた。
木造二階建て。外壁の塗装は剥げ、庭は雑草に覆われている。玄関の引き戸を開けると、土間の奥から女将が現れた。
「いらっしゃいませ」
五十代くらいだろうか。紺色の割烹着を着た女性が、深々と頭を下げた。
「予約していた田中です」
「はい。お待ちしておりました」
女将は俺を二階の部屋へ案内した。階段の軋む音が妙に大きく響く。廊下には他の客室のドアが並んでいたが、どれも閉ざされていた。
「今日は他にお客様は?」
「いえ、田中様だけです」
「従業員の方は?」
「私一人で切り盛りしております。主人は三年前に亡くなりまして」
女将は淡々と答えた。表情に影はない。
案内された部屋は六畳ほどの和室だった。窓からは山の斜面が見える。夕暮れの光が、木々の間から差し込んでいた。
「夕食は七時にお持ちします」
女将は笑みを浮かべて部屋を出て行った。
俺は荷物を置き、浴衣に着替えた。時刻は六時半。風呂にでも入るかと部屋を出ると、廊下の突き当たりに人影が見えた。
紺色の割烹着。
女将だ。
彼女はこちらを見ていた。じっと、動かずに。俺が一歩踏み出すと、女将はゆっくりと廊下の角に消えた。
風呂は一階の奥にあった。古い檜風呂で、湯加減はちょうどよかった。二十分ほど浸かって上がると、脱衣所の扉が少しだけ開いていた。
入る時は確かに閉めたはずだ。
首筋に冷たいものが走る。俺は急いで服を着て、二階へ戻った。
部屋に入ると、既に夕食が並べられていた。
まだ七時前だ。
膳には焼き魚、煮物、汁物が並んでいる。湯気が立っていた。温かい。
「失礼します」
背後から声がした。
振り返ると、女将が立っていた。
「お食事、お済みになりましたか?」
「いえ、今戻ったところです」
女将は不思議そうな顔をした。
「でも、お膳は……」
彼女の視線が畳の上の食事に向けられる。そして、はっとした表情を浮かべた。
「申し訳ございません。私、お持ちしたことを忘れておりました」
女将は膳を持ち上げようとした。俺は慌てて手を伸ばした。
「あ、大丈夫です。このままいただきます」
「そうですか。では、ごゆっくり」
彼女は一礼して部屋を出た。
俺は箸を手に取った。だが、喉を通らない。さっきの女将の反応が引っかかっていた。
食事を運んだことを忘れていた?
それとも、運んだのは別の誰かなのか?
箸を置き、廊下に出た。階段を下りて、一階の奥へ向かう。突き当たりの襖を開けると、そこは台所だった。
女将がいた。
背中を向けて、まな板の前に立っている。包丁で何かを切る音が規則的に響いていた。
「あの、すみません」
声をかけても、女将は振り返らない。
トン、トン、トン。
包丁の音だけが続く。
「女将さん」
もう一度呼びかけた瞬間、女将の動きが止まった。
ゆっくりと、こちらを振り返る。
彼女は笑っていた。
だが、その目は笑っていなかった。見開かれたまま、一度も瞬きをしない。
「何か御用でしょうか」
俺の背筋が凍った。
「いえ、なんでも……」
後ずさりして台所を出た。階段を駆け上がり、部屋に戻る。鍵をかけて、布団に潜り込んだ。
瞬きをしない目。
あれは何だったんだ。
夜中、物音で目が覚めた。
廊下を歩く足音。一定のリズムで、こちらへ近づいてくる。
部屋の前で止まった。
襖の向こうに、人の気配。
「田中様」
女将の声だ。
「お布団の具合は、いかがですか」
時計を見ると、午前二時を回っていた。
こんな時間に、布団の具合を聞きに来るのか?
苛立ちが込み上げてきた。それとも、何かの嫌がらせなのか。わざわざ客を起こしに来るような宿があるか。
「大丈夫です」
声が少し強くなった。早く行ってくれ。
「そうですか。何かございましたら、いつでもお呼びくださいませ」
足音が遠ざかっていく。
俺は布団を頭まで被った。だが、眠れない。
しばらくして、また足音が聞こえた。
今度は階段を上る音。ゆっくりと、一段ずつ。
そして、また部屋の前で止まる。
「田中様」
また女将の声。
「お布団の具合は、いかがですか」
全く同じ言葉。
同じ抑揚。
同じ時刻に、二度も?
背中に冷たい汗が流れた。さっきの苛立ちが、恐怖に変わる。
俺は答えなかった。
「田中様」
もう一度、呼びかける。
返事をしなければ、いつまでもそこにいるつもりなのか。
「……大丈夫です」
「そうですか。何かございましたら、いつでもお呼びくださいませ」
足音が遠ざかる。
だが、今度は階段を下りる音は聞こえなかった。
廊下の奥で、誰かが立っている気配がする。
朝、目が覚めると七時を過ぎていた。
部屋を出ると、女将が廊下で雑巾がけをしていた。
「おはようございます」
彼女は明るく挨拶してきた。普通の女将の顔だ。昨夜のことが嘘のようだった。
「朝食の準備ができております」
一階の食堂に案内された。テーブルには既に朝食が並んでいる。
食事を終え、会計を済ませた。早くここを出たかった。
「お気をつけて」
女将が玄関先まで見送ってくれた。
車に乗り込み、エンジンをかける。バックミラーで玄関を見ると、女将が手を振っていた。
車を走らせ、山道を下り始めた。
カーブを曲がった時、対向車とすれ違った。一瞬だったが、助手席に見えた。
紺色の割烹着を着た女性。
さっきまで玄関にいたはずの、女将だった。
急ブレーキを踏んで車を止めた。バックミラーを見る。対向車は既に見えない。
気のせいだ。そう思いたかった。
だが、次の瞬間、背筋が凍りついた。
ルームミラーに映っている。
後部座席に、誰かが座っている。
紺色の割烹着。
ゆっくりと視線を上げると、鏡の中で目が合った。
女将が、そこにいた。
見開かれた目で、じっとこちらを見つめている。
一度も、瞬きをせずに。
「お忘れ物ですよ」
彼女の手が伸びてきた。掴まれた肩が、氷のように冷たかった。
俺は叫ぼうとした。だが、声が出ない。
鏡の中の女将が、笑っている。
その瞬間、後部座席を振り返った。
誰もいなかった。
空席だ。
安堵の息をつく。幻覚だったのか。
だが、肩にはまだ、あの冷たい感触が残っている。
そして気づいた。
助手席のシートに、紺色の布切れが置かれていた。
割烹着の、袖の部分だった。
山の奥から、二つの人影がこちらを見ていた。

同じ顔。
同じ割烹着。
二人とも、まったく瞬きをせずに。
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