引っ越して三日目の朝、妻の美咲が階段で転んだ。
「大丈夫?」
慌てて駆け寄ると、彼女は青ざめた顔で四階の踊り場を見上げていた。
「今、誰かいた」
私たちが住むのは五階の503号室だ。このマンションは各階に四部屋ずつ、全二十戸の小さな建物だ。四階には若い女性が一人暮らしをしている。引っ越しの挨拶で会ったばかりだった。401号室、エレベーターに一番近い角部屋だ。
「四階の人じゃない?」
美咲は首を横に振った。
「違うの。403号室のドアの隙間から、じっと見てた」
403号室? 401号室じゃなく?
その夜、階段を上がると四階の廊下に明かりが漏れていた。401号室ではなく、403号室のドアの下からだ。
立ち止まると、覗き穴がこちらを向いている気がした。
そして、明かりがすっと消えた。
翌朝、一階の管理人室を訪ねた。ドアを開けると、古びた事務机に座っていた老人が顔を上げた。痩せた頬に深い皺が刻まれている。
「四階の403号室の方のこと、教えていただけますか」
管理人は不思議そうに首を傾げた。その首筋に、古い傷跡のようなものが見えた。
「403? あそこはずっと空室ですよ」
「いえ、確かに人がいます」
「旦那さん、この建物の四階は402号室までしか入居できないんです。403と404は、大家さんの方針で閉鎖されています」
背筋に冷たいものが走った。
「でも、妻がそこから見られたと」
管理人は困ったように笑った。その笑顔が、どこか歪んでいる。
「奥様の勘違いじゃないですか? 他の部屋と間違えたとか」
部屋に戻って美咲に話すと、彼女は真っ青になった。
「嘘。私、確かに見たもん。ドアの隙間から、白い顔が」
その日の午後、私たちは四階に降りた。
廊下は薄暗く、蛍光灯が一つだけ点滅していた。401号室、402号室のドアは閉まっている。その奥、廊下の突き当たりに403号室と404号室があった。
403号室のドアの前に立つと、中から物音がする。確かに誰かいる。
「すみません」
ノックした。返事はない。
もう一度ノックすると、ドアの向こうで何かが近づいてくる気配がした。ゆっくりと、引きずるような足音。覗き穴が暗くなる。
誰かが、中からこちらを見ている。
「あの、五階の者ですけど」
美咲が震える声で言った。
長い沈黙の後、ドアが開いた。
隙間から覗いたのは、見覚えのある女性の顔だった。いや、違う。引っ越しの日、401号室で会った女性に似ているが、何かが違う。髪がもっと長く、顔色が異様に白い。
「ああ、こんにちは」
彼女は穏やかに微笑んだ。その笑顔が、不自然なほど動かない。
「やっぱりいらっしゃったんですね。管理人さんが空室だって」
「ええ、よく言われるんです。でも、ちゃんと住んでますよ。隣の404号室にも、男性が一人」
404号室にも?
その時、美咲が私の腕を掴んだ。爪が食い込むほど強く。
女性の首に、赤黒い痣があった。まるで何かで締め付けられたような、くっきりとした指の跡。

「あの、大丈夫ですか、その首」
女性は首に手をやり、何でもないというように笑った。
「これ? ちょっと転んじゃって」
彼女の後ろ、薄暗い部屋の奥に、もう一つ人影が見えた。いや、人ではない。壁に、人の形をした黒い染みがあった。まるで誰かがそこで焼かれたような。
「じゃあ、また」
女性はドアを閉めた。その瞬間、美咲が叫んだ。
「待って! あなた、本当に生きてるの?」
ドアが止まる。隙間から、女性の目だけが見えた。
その目は笑っていなかった。虚ろで、焦点が合っていない。
「生きてる? 変なこと聞くのね」
女性の声が低くなる。
「でも、あなたたちは?」
ドアが閉まる音がした。
私たちは逃げるように階段を駆け上がった。部屋に戻り、ドアに鍵をかける。
美咲は泣きながら言った。
「ねえ、思い出して。私たち、いつ引っ越してきたの?」
「三日前だよ」
「じゃあ、なんでダンボールが一つもないの? 荷物は? 前の家の記憶は?」
言われて、初めて気づいた。
この部屋には何もかもが揃っていた。まるで最初からここで暮らしていたかのように。食器棚には食器が並び、クローゼットには服がかかっている。でも、それが自分たちのものだという実感がない。
「引っ越しトラックは? 業者の人は?」
美咲の声が震える。
「思い出せない」
携帯を手に取ると、着信履歴も送信履歴も何もなかった。電話帳には、一件も登録がない。
通話ボタンを押そうとすると、手が震えた。誰に、電話をすればいい?
窓の外を見る。夕暮れの街が広がっている。
でも、通りに人影が一つもない。車も走っていない。信号だけが、規則正しく点滅している。
美咲が悲鳴を上げた。
玄関のドアを、誰かが叩いている。
ゆっくりと、規則的に。
覗き穴を見ると、四階の女性が立っていた。
首の痣が、さらに濃くなっている。彼女の横に、背の高い男が立っていた。404号室の住人だろうか。男の額には、深い裂傷があった。
そして、その後ろに、何人もの人影が見えた。401号室の女性、402号室の老夫婦、三階、二階の住人たち。みんな、こちらを見ている。
全員の体に、何かしらの傷があった。
「五階の方、いらっしゃいますか」
女性の声が、ドア越しに響く。
「私たち、ずっとお待ちしていたんです」
ドアノブがゆっくりと回り始めた。
鍵をかけたはずなのに。
美咲が私の手を握る。その手が、冷たかった。
いや、私の手も、冷たかった。
いつから?
ドアが、開く。
廊下に、全員が並んでいた。
一番前に、管理人の老人が立っていた。
彼の首筋の傷が、はっきりと見えた。深く、致命的な傷。
「ようこそ」
老人が笑った。
「これで、二十戸すべて埋まりました。このマンションは、十年前に火事で全焼したんです。私も含めて、全員が」
老人の後ろから、炎の匂いがした。
「あなたたちは、あの日の夜、この建物の前で事故に遭ったんですよ。覚えていませんか?」
美咲が、喉を押さえた。
私も、自分の胸に手をやった。そこに、何かが突き刺さっていた記憶が、ゆっくりと蘇ってくる。
ハンドルを切り損ねた車。ガードレールを突き破って、このマンションの壁に。
「さあ、部屋に戻りましょう。これからずっと、ここで暮らすんです」
管理人が、私たちの部屋に足を踏み入れた。
他の住人たちも、ゆっくりとついてくる。
美咲が私を見た。
私も美咲を見た。
私たちは、もう逃げられない。
窓の外の街は、まだ人のいない夕暮れのままだった。
信号だけが、永遠に点滅している。
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