祖母の介護を始めて三ヶ月が過ぎた頃、私は離れの仏間で奇妙なものを見つけた。
掃除のため仏壇を動かそうとした時、壁との隙間に黒く変色した木片が挟まっているのに気づいた。引っ張り出してみると、それは位牌だった。しかし戒名が逆さまに彫られている。文字を読むには、位牌を上下逆にしなければならない。
「これ、何?」
居間で祖母に見せると、祖母は一瞬だけ目を見開いた。
「それは……」
言葉を濁して、祖母は視線を逸らした。私は仏壇の裏に戻しておいた。その日は何事もなく過ぎた。
翌朝、母が不思議そうな顔で私を見た。
「あなた、誰?」
冗談だと思った。母は笑っていなかった。
「お母さん、何言ってるの」
「だって、うちに娘なんていないわよ」
血の気が引いた。父を呼んだ。父も首を傾げた。
「君は誰だい?ヘルパーさん?」

祖母のところへ駆け込んだ。祖母だけは私を覚えているはずだった。
「おばあちゃん!」
祖母はゆっくりと顔を上げた。その目には何の感情も浮かんでいなかった。
「どちら様ですか」
絶望が胸を突き抜けた。祖母まで。祖母まで私を忘れてしまった。
声が震えた。写真を見せた。家族写真の中で笑っている私を指差した。
「これ、私だよ!」
母が写真を覗き込んだ。
「……誰この人?こんな子、写ってたかしら」
写真の中の私が、薄くぼやけていた。輪郭が溶けるように曖昧になっている。
私は離れに走った。仏壇の裏から逆さ位牌を取り出した。これを燃やせば、元に戻るかもしれない。そう思った。
位牌を持って仏壇の前に座り込んだ時、背後で気配がした。
振り返ると、祖母が立っていた。
さっきまでの虚ろな目ではなかった。祖母は私をまっすぐ見つめていた。
「それを動かしてはいけなかったのに」
祖母の声は、いつもと違った。低く、何かを諦めたような響きがあった。まるで、ずっと昔から知っていた秘密を、ようやく口にするような声だった。
「あの位牌はね、昔、誰からも忘れられて死んだ人のものなの。名前も、戒名も、すべて逆さまに彫られている。誰の記憶にも残らなかった人」
「じゃあ、どうして仏壇の裏に?」
「誰かが拾ったのよ。哀れに思って。でもね、その位牌は寂しがるの。だから、触れた者の存在を、みんなの記憶から少しずつ奪っていく」
祖母の目に、かすかな悲しみが浮かんだ。
「私もね、昔この位牌に触れたことがある。だから一度だけ、家族全員から忘れられた。でも私の場合は……運が良かった。すぐに戻したから、記憶が消える前に気づいてもらえた」
祖母は私を見た。その目には申し訳なさと、諦めがあった。
「でもあなたは、もう一晩経ってしまった」
膝が震えた。
「戻せるの?戻せるんでしょう?」
祖母は静かに首を横に振った。
「位牌を元に戻せば、進行は止まる。でも、もう消えた記憶は戻らない」
「嘘だ!お母さんもお父さんも、また私を思い出すはずだ!」
祖母は何も言わなかった。その沈黙が、すべてを物語っていた。
「おばあちゃん、助けて。お願い」
私は縋るように祖母の袖を掴んだ。祖母は手を振りほどいた。
「無理なの」
冷たい声だった。
「私が覚えていても、意味がない。私がいくらあなたのことを説明しても、誰も信じない。認識できない。私だけが覚えていても……」
祖母は目を伏せた。
「私はもう年寄りよ。いつ死んでもおかしくない。私が死んだら、この世界であなたを覚えている人間は、誰もいなくなる」
「そんな……」
「それに」
祖母の声が、さらに低くなった。
「私も時々、忘れそうになるの。位牌の呪いは、私にもまだ残っている。だから私が覚えていられるのも、いつまでかわからない」
私は泣きながら位牌を仏壇の裏に押し込んだ。これ以上、忘れられたくなかった。
居間に戻ると、母が電話をしていた。
「はい、知らない人が家の中にいるんです。警察を……」
母の目には、恐怖があった。娘を見る目ではなく、不審者を見る目だった。
「違う、私だよ!」
叫んだ。母は受話器を握りしめたまま、後ずさった。
私は家を飛び出した。どこへ行けばいいのかわからなかった。
コンビニで買い物をしようとしたとき、店員が商品を見つめたまま首を傾げた。
「あの……どちら様でしょうか」
私は答えようとして、言葉に詰まった。店員は私の存在には気づいている。目の前に人がいることはわかっている。でも、私が「誰」なのか認識できないのだ。不審者を見るような、困惑した目で私を見つめている。
財布を開けると、免許証の写真が真っ白だった。名前の欄も空白だった。
スマートフォンを見た。連絡先がすべて消えている。SNSのアカウントにログインできない。存在しないアカウントだと表示される。
公園のベンチに座り込んだ。通りすがりの人は誰も私を見なかった。視界に入っていないかのように、私をすり抜けて歩いていく。
日が暮れた。家に戻るしかなかった。
玄関の鍵は開いていた。そっと中に入った。居間から両親の声が聞こえた。
「変な人、どこ行ったのかしら」
「警察には通報したし、もう来ないだろう」
私は自分の部屋のドアを開けた。部屋は物置になっていた。ベッドも机もない。段ボール箱と古い家具が雑然と積まれているだけだった。
最初から、この部屋は私の部屋ではなかったかのように。
離れに向かった。仏間の電気はついていた。祖母が正座して、仏壇に向かっていた。
「おばあちゃん……」
祖母は振り返らなかった。
もう一度、声をかけた。祖母はゆっくりと顔を向けた。
その目には、何の認識もなかった。
「……誰かいるのかい?」
祖母は私を通り抜けるように、虚空を見つめている。
「おばあちゃん、私だよ!さっきまで話してたじゃない!」
祖母は首を傾げた。独り言のように呟く。
「気のせいか……年は取りたくないねえ」
そして再び、仏壇に向き直った。
私は祖母の前に立った。手を伸ばして肩を掴もうとした。
手が、祖母の肩をすり抜けた。
いや、違う。私の手が祖母に触れている。確かに触れている。でも祖母は、何も感じていない。認識していない。
「おばあちゃん……」
声は出ている。でも祖母には届いていない。
祖母が言っていた通りだった。昔の呪いが残っていて、時々忘れそうになると。
そして今、祖母は完全に私を忘れた。
最後の一人が、私を忘れた。
仏壇の裏から、逆さ位牌が黒い光を放っているような気がした。
私は膝をついた。涙も出なかった。
翌朝、私は家にいた。誰も私を見なかった。両親は朝食を食べ、普通に会話をし、出かけていった。私が目の前にいるのに、誰も気づかなかった。
鏡を見た。そこには誰も映っていなかった。
私は確かに、ここにいる。
でも、誰も私を見ない。
誰も私を覚えていない。
私は透明になったわけではない。ただ、誰の記憶にも、認識にも、存在しなくなっただけだ。
離れの仏間で、逆さ位牌は今日も静かに、仏壇の裏に眠っている。
そして私は、誰にも気づかれず、この家を彷徨い続ける。
生きているのか、死んでいるのかもわからないまま。
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