夜の理科室で、新藤は採点作業をしていた。
コツ、コツ、コツ。
ペンを走らせる手が止まった。何か聞こえた気がした。
コツ、コツ、コツ。
音は人体模型の方から響いている。教室の隅に立つ、あの等身大の模型だ。昼間は生徒たちが面白がって触るが、夜は薄気味悪い存在でしかない。
新藤は椅子を引いて立ち上がった。音は止んでいる。気のせいだと思いたかった。
だが模型に近づくと、また聞こえた。
コツ、コツ、コツ。
内側から叩くような音。プラスチックの空洞を何かが叩いている。新藤の背筋に冷たいものが走った。
「誰かのいたずらか……?」
声が震えていた。模型の胸部は開閉式になっている。新藤は恐る恐る手を伸ばし、胸のパーツを開いた。
中に紙が一枚、折り畳まれて入っていた。
広げると、それは心電図だった。黒いインクで波形が描かれている。だが、この波形は教科書に載っているような規則正しいものではない。波が乱れ、途切れ、最後は一本の直線になっている。
死を示す波形だ。
新藤の手が震えた。紙の下部に、小さな文字で何か書かれている。
『助けて』
コツ、コツ、コツ。
音が再び始まった。今度は激しく、必死に。新藤は後ずさった。これは何かの冗談だと思いたかった。だが音は止まらない。
「誰だ! 誰なんだ!」
新藤は叫んだ。模型を揺さぶった。だが中は空洞のはずだ。何も入っていない。入っているはずがない。
コツ、コツ、コツ、コツ、コツ。
音は狂ったように激しくなった。新藤は模型を倒した。床に転がった模型の内側を覗き込む。
空っぽだった。
何もない。ただのプラスチックの空洞。だが音は聞こえている。確かに聞こえている。
新藤は息を荒くしながら、床に落とした紙を拾い上げた。
紙に描かれた心電図の波形が、動いていた。
「そんな、馬鹿な……」
インクが滲むように、新しい線が紙の上を這っていく。まるで生きているかのように、波形がリアルタイムで描かれ続けている。ただの紙のはずなのに。ただのインクのはずなのに。
そして波形は規則正しくなり始めた。乱れていた線が整い、正常な心拍のリズムを示し始めた。
新藤は安堵した。これで終わりなのだと思った。助かったのだと。
だが次の瞬間、紙の下部に新しい文字が浮かび上がった。
『ありがとう』
新藤の体が硬直した。
背後で、何かが立ち上がる気配がした。
振り向くことができなかった。振り向いてはいけないと本能が叫んでいた。
だが首が勝手に動いた。
模型が立っていた。倒したはずの模型が、新藤の背後に立っていた。
開いたままの胸から、赤黒い何かが溢れ出していた。プラスチックではない。生温かい液体が床に滴り落ちる音。
模型の目が新藤を見た。
空洞のはずの目に、何かが宿っていた。
「やっと、出られる」
模型が喋った。新藤の声で。
新藤は悲鳴を上げようとしたが、声が出なかった。喉が塞がれたように息ができない。
模型が一歩、近づいてきた。
新藤の体が動かない。金縛りのように固まっている。
模型は新藤の前に立ち、冷たいプラスチックの手を新藤の胸に当てた。

「ずっと待っていたんだ。誰かが開けてくれるのを」
新藤の胸が熱くなった。いや、熱いのではない。何かが侵入してくる感覚。模型の手が胸の中に沈み込んでいく。
「中は、狭かったよ」
新藤の視界が暗くなった。
最後に聞こえたのは、自分の心臓が止まる音だった。
翌朝、理科室で新藤が倒れているのが発見された。死因は心臓発作。机の上には採点途中の答案用紙と、一枚の紙。
それは心電図だった。波形が一本の直線で終わっている。
そして下部には、震える文字で書かれていた。
『助けて』
人体模型は、いつものように教室の隅に立っていた。
だが誰も気づかなかった。
模型の胸が、かすかに上下していることに。
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