行商人の庄吉は、山と山を縫う古道を急いでいた。
峠を越える前に、雨が落ちてきた。
ぽつ、ぽつ、と肩に冷たいものが刺さる。
すぐに土の匂いが濃くなり、闇の中で雨音だけが膨らんでいく。
「勘弁してくれよ……」
荷車を引きながら見回すが、傘は一本も残っていない。
さっき町で、最後の一本まで売り払ってしまったのだ。
道の脇はすぐ崖で、踏み外せば谷底だ。
空は墨を流したように黒く、杉の梢がその上をすりガラスみたいに覆い隠している。
その時、前方の闇に、白い輪がふっと浮かんだ。
道端に、古びた和傘が一本、開いたまま立っている。
骨は歪み、紙はところどころ破けているが、まだ雨は防げそうだった。
「変なところに置いてやがる」
庄吉が近づいても、周りに人影はない。
荷車のきしむ音と、雨が土を叩く音しか聞こえない。
「……借りるぞ」
そうつぶやき、柄に手を伸ばした瞬間、和傘は勝手にぐるりと回った。
人を迎えるように、庄吉の頭上へぬるりと滑り込む。
誰も持っていないのに、開いたまま、ふわりと浮いている。
「……風の、せいだ」
そう言い聞かせ、庄吉は震える指で柄をつかんだ。
頭上を覆う布に、雨粒がぱらぱらと弾ける。
顔に叩きつけていた冷たさが消え、かすかな安心が喉を通った。
そのときだ。
柄が、生き物の尻尾のようにしなった。
「おい」
庄吉の意思と関係なく、柄は道の正面ではなく、左の暗がりへぐい、と庄吉を引っ張る。
そこは崖のはずだ。
逆らうと、骨がぎしりと鳴り、どこかで笑いをこらえるようなひそひそ声がした。
「こっち、こっち」
庄吉は手を離した。
だが傘は落ちない。
柄の先で地面をちょん、と突き、独りでに歩き出した。
暗い古道を、ぽつりぽつりと濡れた紙が揺れながら進んでいく。
置いていかれまいと、庄吉は無意識に後を追った。
やがて崖際に、小さな祠が現れた。
苔むした石段の上に、歪んだ屋根。
その軒からぶら下がる数十足の古い草履が、風もないのにゆらゆら揺れている。
さきほどの傘は、祠の前で止まり、くるりと庄吉の方へ向きを変えた。
「……雨宿りくらい、させてもらうか」
そう言って石段を上がると、背後でざあ、と雨脚が強くなった。
祠の戸は勝手に開いた。
中は暗いが、不思議と何がどこにあるのかは見える。
狭い空間の四方の壁一面に、傘が掛けられていた。
骨だけになったもの、紙が半分剥がれたもの、柄が折れてぶら下がっているもの。
何十本もの傘がぎゅうぎゅうに並び、天井の梁からも逆さに吊られている。
湿った紙と、長く乾かない布の匂いが、喉にまとわりついた。
「旅のお方」
奥から声がした。
灯りもないのに、細い人影が浮かび上がるように近づいてくる。
白い着物を着た、やせた老人だ。
顔は、深くかぶった笠の影で見えない。
「ここは置き傘の社じゃ。
道で忘れられた傘を集めてな、雨の日だけ開ける」
老人はかすれ声で笑った。
「冷えただろう。
お前さんも、傘を置いていくとええ」
庄吉は、手に持ったままの和傘を見下ろした。
骨がかすかに震え、紙の破れ目から黒い水がぽたぽたとこぼれている。
「……これは、拾ったもんで」
言い終わる前に、老人が顔を上げた。
笠の下からのぞいた顔には、目がなかった。
空洞の眼窩から、雨粒そっくりの黒い玉が、いくつもこぼれ落ちている。
それが畳に当たるたび、びしゃり、と水音がした。
「みんな、よく働いたのにな」
老人の声が、急に近くなる。
いつの間にか、庄吉の目の前まで来ていた。
冷たい指が、肩に触れる。
とたんに、体の芯まで冷水を流し込まれたような寒気が走った。
「もう一度だけ、役目を与えてやるんじゃ」
老人の口が、耳元にまで伸びてくる。
「お前さんの骨を、柄にしてやろう」
庄吉は反射的にその手を振りほどいた。
肩を押し返した勢いで体がよろけ、背中で戸を押し開ける。
外の冷たい雨が一気に吹き込んだ。
庄吉は転がるように石段を駆け降りた。
足元が滑り、泥が跳ねる。
振り返ると、祠はもうなかった。
そこにはただ、濡れた崖と、真っ黒な杉の列があるだけだ。
遠くに、灯りが見えた。
いくつも小さな灯が揺れている。
「村か!」
庄吉は息を切らしながら駆け出した。
家々の影、人の気配、煙の匂い。
誰かの笑い声も聞こえた気がした。
胸の奥に、熱いものが広がる。
「助かった……!」
その瞬間、灯りが、一つ残らず消えた。
目が慣れた闇の中に浮かび上がったのは、家ではなかった。
傘だ。
無数の傘が、道の両側にぎっしりと並んでいる。
さっき祠で見たものよりも、もっと古く、もっと歪んだ骨。
どれも、柄を下にして逆さまに立っていた。
開いた内側から、人の声がこもって漏れてくる。
笑い声、泣き声、怒鳴り声。
全部、雨に消されたはずの音だ。
「うそだろ……」
庄吉の足がすくんだ。
その足首に、ぬるりと冷たい感触が巻きついた。
見ると、自分の手にあったはずの古い傘の柄が、蛇のように伸びて足に絡みついている。
いつ手放したのか、覚えていない。
「離せ!」

蹴り上げても、柄はびくともしない。
かわりに、周りの傘が一斉に開いた。
ぱん、ぱん、と湿った音が夜に弾ける。
骨組みがきしり、笑い声のような音が重なった。
傘たちは地面から少し浮き上がり、庄吉に向かってじわじわと迫ってくる。
逃げようとした瞬間、足を絡め取っていた柄が強く引いた。
庄吉の体が前に倒れ、顔から一番近くの傘の中へ突っ込む。
ぬめった紙と布が、口と鼻にぴたりと貼りついた。
「ぐ、う……!」
息が吸えない。
湿った紙の味と、古い泥の臭いが、喉の奥まで流れ込んでくる。
内側から骨がきしみ、頭を挟み込む。
耳のすぐ横で、囁き声がした。
「雨を、しのいだ」
「よく、働いた」
男の声、女の声、子どもの声が、ぐちゃぐちゃに混ざって耳の奥を叩く。
それが全部、この傘に飲み込まれた者たちの声だと、庄吉は知ってしまった。
胸が焼けるように苦しい。
暴れても、紙は千切れない。
かわりに、別の傘の骨が背中と腕に絡みつき、じわじわと締め付けてくる。
指が、足が、冷たくしびれていく。
最後に見えたのは、自分と同じように傘の縁から突き出ている、何本もの足だった。
裸足、草履、子どもの小さな足。
どれもぴくりとも動かない。
やがて、庄吉の足もその中に混ざり、静かになった。
古道には、再び雨の音だけが残る。
ひとつ、傘が増えた。
他の傘と同じように、地面から少し浮かび、ゆっくりと開く。
中で何かが乾いていく音が、かすかにした。
雨が上がるころ、その傘はふわりと向きを変えた。
次の雨の日に、誰かが通りかかる場所へ、ゆっくりと移動していく。
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