寝室の窓の向こうには、墓地がある。
賃料の安さに負けてこのアパートを選んだのは失敗だったと、綾乃は毎晩のように思っていた。夫は夜勤続きで、夜にこの部屋にいるのは、ほとんど彼女ひとりだ。
その夜も、食器を洗い終えて、なんとなく寝室の窓を見た。
薄いレースのカーテン越しに、墓石の黒い影が透けている。
ぞわりと背筋をなぞる寒気を振り払うように、彼女はテレビの音量を上げた。笑い声が部屋に広がるのに、視線だけが窓へ引き寄せられる。
――見られている。
そんな感覚が、急にはっきりとした形を持った。
「……やめてよ」
誰にともなく呟き、綾乃は立ち上がる。確かめるように、寝室に入った。
窓の向こうは暗い。街灯のオレンジ色だけが、墓石の列を浮かび上がらせている。
その隙間に、ひとつだけ白い影が立っていた。
女だった。長い髪が顔にかかり、薄いワンピースの裾が風もないのに揺れている。まっすぐ、綾乃の部屋の窓を見上げていた。
息が止まる。
瞬きした一瞬のあいだに、女は、少しだけ窓のほうへ寄っていた。
「……え?」
目をこすっても、女は消えない。墓石と墓石のあいだに、窮屈そうに立って、動かない。
こんな時間に、あんな場所に、人がいるはずがない。
「気のせい、気のせい……」
綾乃は早口で呟き、レースのカーテンを乱暴に閉めた。白い布がひらりと揺れる。
――それで終わるはずだった。
けれど、布越しに、まだ「目線」が刺さってくる。
カーテンのすぐ向こうに、誰かが立っている。そんな確信だけが、皮膚の裏を爪でなぞるように続いた。
翌朝、綾乃は管理人室を訪ねた。
「夜になると、墓地のほうから、誰かが見てる気がして……。眠れないんです」
細い体の年配の管理人は、少しだけ眉を寄せただけだった。
「その話、この部屋の前の方もしてましたよ」
「前の人も、見えたって……?」
「ええ。急に出て行かれてね。荷物もほとんど置いたままで。夜中にタクシー呼んで、そのまま」
綾乃の喉が、からからに乾く。
「何か、あったんでしょうか」
管理人は、彼女の顔を見ずに答えた。
「さあねぇ。でも、窓からお墓が見える部屋は、やっぱり……気にする人は気にしますよ」
慰めにもならない言葉が、余計に不安を広げた。
その夜も、女はいた。
カーテンを閉める前に一瞬だけ覗いた窓の向こうで、同じ場所から、同じ姿勢で見上げている。
光のない、黒い穴のような目。
「……見なければ、いなくなる」
そう信じて、綾乃は窓を背にして布団にもぐり込んだ。枕元のスマホの光に、必死で意識を縛りつける。
通知音が鳴る。
知らないカメラのアイコンが、ギャラリーに追加されていた。
撮った覚えのない写真を、震える指で開く。
薄いレースのカーテンの向こうに、窓ガラスへ顔を押しつけた女がいた。布越しに輪郭だけが浮かび上がり、目の位置だけ、黒く濡れて見える。
「や、だ……」
綾乃はスマホをベッドに投げ出した。
見てはいけない。
窓のほうを、絶対に見てはいけない。
そう思えば思うほど、意識は勝手にそちらへ引きずられていく。
すうっと、カーテンの向こうから音がした。
布を撫でるような、かすかな擦れる音。
シャッ、シャッ、と規則正しく、ガラスの向こうで何かが動く。
「……やめて」
潰れた声で呟いても、音は止まらない。カーテンの一部が、内側へわずかに膨らんだ。
そこだけ、何かがぴたりとくっついている。
綾乃は布団をかぶり、耳を塞いだ。音は、頭の内側で鳴り続けた。
――この部屋を出よう。
夜明け前、彼女は決めた。
引っ越せばいい。墓地の見えない場所に移れば、あの女とは縁が切れる。そう信じるしかなかった。
朝、夫に電話をかける。
「ごめん、もう無理。この部屋、怖くて……お願い、引っ越したい」
受話器の向こうで、夫はしばらく黙っていたが、やがてため息まじりに言った。
「……分かった。そんなに嫌なら、探そう。給料入ったら、すぐ動くよ」
「本当に?」
「本当。今日は早めに帰る」
その言葉だけが、救いに思えた。
夕方、夫が帰ってきた。
「内見、何件か予約したよ。週末には決めよう。それまでホテル泊まるか?」
「……うん」
荷物を少しだけまとめてふたりでアパートを出る。玄関の鍵を閉めた瞬間、背中に視線が刺さるような感覚があったが、振り返らなかった。
駅前のビジネスホテルの部屋は狭いが、窓の外には高層ビルの灯りしか見えない。
「ほら、ここなら平気だろ?」
夫がカーテンを開けて夜景を見せる。綾乃は、ただ頷いた。
シャワーを浴び、ベッドに身を沈めると、体から力が抜けていく。
「明日から、新しい部屋探そうね」
「そうだな」
その声を聞きながら、綾乃は眠りに落ちた。
ふと、目が覚めた。
部屋は暗い。カーテンは閉まっている。隣では、夫が静かに寝息を立てていた。
――ここは、ホテル。
そう心の中で繰り返し、胸の奥にわずかな安心が広がる。
もう、あの窓も、墓地も、あの女も関係ない。
そう思ったとき。
カーテンの向こうから、コン、コン、と、ガラスを爪で叩くような小さな音がした。
息が止まる。
ここは駅前だ。窓の外はビルの壁と空だけで――
コン、コン。
今度は、はっきりと。
綾乃は布団の中で固まった。夫は、何も聞こえないように眠り続けている。
カーテンの向こうから、かすれた女の声がした。
「……あけて」
喉の奥から、悲鳴にならない声が漏れた。
「やだ……」
それでも、体は勝手に動き出す。何かに引かれるようにベッドを降り、カーテンへ近づいていく。
布の向こうに、ぴたりと視線が当たった感覚がした。そこだけ空気が重くなる。
「開けて」
耳元で囁かれたように近い。
震える指が、カーテンの端をつまむ。
開けてはいけない。ここを開けたら、助からない。
分かっているのに、布はするりと横に滑っていった。
窓ガラスのすぐ向こうに、女がいた。
ガラス一枚を隔てて、顔を押しつけている。白く濁った目が、ぎょろりと見開かれたまま、綾乃を捉えていた。

窓の外には、墓地などない。ビルの壁と、わずかな夜空だけだ。
なのに、そのありえない場所に、女は貼りついている。
「みつけた」
女の口元が、ぎこちなく裂ける。
ガラスの内側に、ぽたりと黒い水滴が落ちた。女の目から染み出した、真っ黒な液体が、静かにすべっていく。
綾乃は、喉を押し潰されたような声をあげて後ずさった。
その足首を、背後から冷たい手がつかんだ。
振り返ると、そこにも女がいた。
ホテルの白いシーツを濡らしながら、ベッドの下から這い出してきた女が、同じ顔で、同じ目で笑っている。
窓の外の女と、部屋の中の女の視線が、ぴたりと綾乃を挟み込んだ。
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