深夜、鐘楼の見回りに向かう足が重かった。
見習い僧の俊海は、三日前から続く異変に怯えていた。夜になると、誰も撞いていないはずの梵鐘が鳴るのだ。最初は風か何かだろうと思った。しかし鐘楼に駆けつけても、撞木は元の位置に戻っている。縄も揺れていない。
それでも、確かに鐘は鳴った。
低く、重く、骨に響くような音だった。
「また聞こえたか」
住職が俊海の背後から声をかけた。その顔は蒼白で、目の下には深い隈ができていた。
「はい。昨夜も」
「そうか」
住職は鐘楼を見上げた。月明かりに照らされた建物は、まるで巨大な墓標のように見えた。
「わしもだ。あの音を聞いてから、毎晩同じ夢を見る」
俊海の背筋が凍った。
「同じ夢、ですか」
「ああ。お前もか」
住職の問いに、俊海は小さく頷いた。
夢の中で、俊海は鐘楼の下に立っていた。上から何かが落ちてくる。黒い塊が、ゆっくりと、しかし確実に。それが人の形をしていることに気づいたとき、いつも目が覚めた。全身が汗でびっしょりになっていた。
「他の者たちも皆、同じことを言っている」
住職が続けた。
「あの鐘の音を聞いた者は全員、同じ夢を見るんだ」
寺には住職を含めて五人の僧侶がいた。全員が、あの夢を見ていた。
「一体、何が」
「分からん。だが、昔からこの寺には言い伝えがある」
住職は声を潜めた。
「百年前、ここで首を吊った僧侶がいた。鐘楼でな」
俊海の喉が乾いた。
「理由は誰も知らない。ただ、その僧侶は死ぬ前に鐘を鳴らし続けたという。夜通し、狂ったように」
そのとき、音が響いた。
ゴーン。
二人は同時に鐘楼を見た。確かに、鐘が鳴っている。しかし鐘楼には誰もいない。
「今夜で終わりにしよう」
住職が歩き出した。
「鐘を見に行く。お前も来い」
拒否する選択肢はなかった。
鐘楼の階段を上る。木の軋む音が妙に大きく聞こえた。住職の後ろを歩きながら、俊海は心臓の音を数えた。
最上階に着いた。
月光が鐘を照らしている。巨大な青銅の塊は、静かに、動かずに、そこにあった。
「やはり、誰もいない」
住職が呟いた。
鐘に近づこうとした瞬間、再び音が鳴った。
ゴーン。
今度は目の前で。
鐘が揺れている。撞木は動いていないのに。鐘自体が、内側から震えているように。
「まずい」
住職が後ずさった。
そして、二人は見た。
鐘の内側に、何かが張り付いていた。黒い人の形をしたもの。腕が、足が、首が、歪んだ角度で鐘の表面に貼りついている。顔だけがこちらを向いていた。
口が動いた。
「見つけた」
声は鐘の音に混じって響いた。
俊海は階段を転がり落ちるように逃げた。住職も後に続いた。二人は本堂まで走り、仏前に身を投げ出した。
その夜、鐘は一晩中鳴り続けた。
翌朝、住職は寺を出て行った。
「もう戻らない」
それだけ告げて、荷物も持たずに去った。他の僧侶たちも次々と寺を離れた。
最後に残ったのは、俊海だけだった。
逃げればいいのに、足が動かなかった。夢の続きが気になった。あの黒い塊の正体を知りたかった。いや、違う。逃げられなかった。体が、心が、何かに縛られていた。
その夜、俊海は鐘楼に登った。
鐘が待っていた。
「よく来た」
鐘の内側から声がした。人の形はもう鐘に張り付いていなかった。代わりに、鐘の表面全体に無数の指の跡が浮かび上がっていた。内側から掻きむしったような跡が。
「お前は逃げなかったのか」
「逃げられません」
俊海は答えた。声が震えていた。
「なぜ鐘を鳴らすのですか」
「呼んでいるのだ」
声が答えた。
「百年待った。鐘を鳴らして、誰かが来るのを。誰かが残るのを」
鐘がゆっくりと揺れ始めた。
「わしは一人で死んだ。寂しかった。耐えられなかった」
俊海は鐘の下に立った。夢と同じ位置に。足が勝手に動いた。
「だからお前が必要だ。お前だけではない」
縄が動き出した。撞木の縄が、まるで蛇のようにうねりながら俊海に近づいてくる。
「逃げた者たちも、皆来る」
俊海が叫ぼうとした瞬間、縄が首に巻きついた。
きつく、きつく、締め付けてくる。息ができない。足が宙に浮いた。
「お前が最初だ」
鐘の声が遠くなる。視界が暗くなる。
「次は住職。その次は他の者たち」
俊海の意識が途切れる直前、理解した。
鐘の音を聞いた者は、皆ここに来る。逃げても無駄だ。夢が呼び続ける。毎晩、毎晩、同じ夢を見せられる。やがて耐えきれなくなって、鐘楼に足を運ぶ。
自分の意志ではなく。
呼ばれるままに。
「永遠に、一緒だ」
翌朝、近隣の住民が異変に気づいた。寺の鐘が一晩中鳴り続けていた。
警察が鐘楼に駆けつけたとき、俊海の遺体があった。撞木の縄で首を吊った状態で。顔は苦悶に歪み、両手の爪は剥がれていた。何かを必死に掴もうとした跡が、鐘の表面に無数についていた。

それから一週間後。
別の街で暮らし始めていた住職が、自宅で首を吊った。遺書はなかった。ただ、枕元のメモ帳に何度も同じ言葉が書かれていた。
「鐘が呼んでいる」
その後も、一人、また一人と、あの夜鐘の音を聞いた僧侶たちが死んでいった。場所は違っても、死に方は同じだった。全員が首を吊り、全員が同じ夢を見ていたと周囲に話していた。
最後の一人が死んだのは、俊海の死から三ヶ月後だった。
寺は廃墟になった。誰も近づかなくなった。
しかし今でも、満月の夜になると鐘の音が聞こえるという。
一度、二度、三度、四度、五度。
五つの鐘の音が、重なり合って響く。
そしてその音を聞いた者は、翌日から同じ夢を見始める。
鐘楼の下に立つ自分。上から五つの黒い塊が、腕を伸ばしながら、ゆっくりと落ちてくる。
笑っている。
手招きしている。
「おいで」
夢の中で、彼らは囁く。
「一緒に鳴らそう」
音を聞いた者の数だけ、鐘の音は増えていく。
今夜も、どこかで誰かが聞いている。
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