深夜二時の地下鉄ホーム。最終列車が去った後の静寂は、作業員の田村にとって日常だった。
「よし、今日も点検するか」
工具箱を手に、田村はホームの端へ向かう。線路とホームの隙間——そこに落ちた私物を回収するのも、彼の仕事の一つだった。
懐中電灯で照らすと、財布が一つ、傘が二本。それから、奥の方に光る何か。
田村は隙間に身を滑り込ませた。狭い。ホームの下は想像以上に暗く、湿っていた。膝をつき、這うように進む。
カツン、と工具が線路に当たる音がした。
その瞬間、奥から何かが動く気配がした。
田村は手を止めた。耳を澄ます。聞こえるのは自分の呼吸だけ。気のせいだろうか。再び這い始めると、また——カツン。
今度ははっきりと分かった。奥の暗闇から、何かがこちらへ近づいてくる音。ガサガサという擦れる音。いや、違う。それは這いずる音だった。
「誰か、いるのか?」
返事はない。ただ、その音は確実に近づいていた。
田村は急いで後退しようとしたが、狭い隙間で体が引っかかる。焦りが胸を締め付ける。懐中電灯を奥へ向けた。
そこに——いた。
人の形をした何か。だが、関節が逆に曲がり、首が不自然に傾いている。顔は見えない。見えないのに、こちらを見ているのが分かった。

田村は悲鳴を上げながら必死で後退した。工具箱が線路に落ち、ガシャンと大きな音を立てる。
その音に反応して、それは一気に距離を詰めた。
「うわああああっ!」
田村はホームの上へ転がり出た。心臓が破裂しそうだった。震える手で携帯電話を取り出し、同僚の番号を押す。
「もしもし、田村か?どうした、こんな時間に」
「た、助けてくれ!ホームの下に、何かいる!人じゃない、何かが——」
「落ち着け。今から行く。十五分待ってろ」
電話が切れた。田村は隙間から目を離せなかった。暗闇の中で、何かがじっと待っている気がした。
恐怖で体が固まる。呼吸を止め、身じろぎ一つしなかった。動けば——音を立てれば——また来る。
心臓の鼓動だけが、やけに大きく聞こえた。その音すら、あれに聞こえてしまうのではないか。田村は必死で息を殺した。
一分が、永遠のように長い。
暗闇の向こうで、何かが這う音が微かに聞こえる。近づいているのか、遠ざかっているのか。判別できない。ただ、そこに——いる。
やがて同僚の佐藤が到着した。
「大丈夫か?顔色悪いぞ」
「佐藤さん、本当にいたんです。ホームの下に——」
佐藤は苦笑いを浮かべた。「疲れてるんだろ。俺が確認してくる」
「やめてください!危険です!」
だが佐藤は聞かず、懐中電灯を持って隙間へ潜り込んでいった。田村は震えながら見守る。
三十秒。一分。二分。
「佐藤さん!」
返事がない。
田村は意を決して、再び隙間を覗き込んだ。懐中電灯の光が奥で揺れている。だが、持ち主の姿は見えない。
「佐藤さん!」
光が、ゆっくりとこちらへ向いた。
照らされたのは——佐藤の顔だった。だが、その表情は凍りついたように硬直し、口だけが不自然に開いている。
そして、彼の体が引きずられるように奥へ消えていった。懐中電灯だけが、線路の上に転がっている。
田村は叫び声を上げた。走ってホームの階段を駆け上がる。地上へ。人のいる場所へ。
改札を抜け、外の空気を吸い込んだ時、ようやく恐怖が薄れていくのを感じた。もう二度と、あの仕事には戻らない。そう心に決めた。
翌日、田村は辞表を提出した。上司は引き留めたが、理由は言えなかった。
それから三週間。新しい仕事を探していた田村の元に、古い同僚から連絡が入った。
「田村、佐藤さん、見つかったよ」
「え?本当ですか?」
「ああ。でも、おかしなことにな——彼、あの日からずっと地下鉄で作業してたって主張してるんだ。俺たちが心配して探してたのに、毎日普通に出勤してたって。記憶が混乱してるみたいで、病院に運ばれた」
田村の背筋に冷たいものが走った。
「あと、変なこと言ってたんだ。『線路の音がうるさくて仕方ない』って。静かな病室でも、ずっと線路の下にいるみたいに、何かの音に怯えてるんだ」
電話を切った後、田村は窓の外を見た。
遠くに見える地下鉄の入口。人々が吸い込まれていく。
そして、田村の耳に——聞こえた気がした。
地面の下から、微かに響く、何かが這いずる音を。
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