深夜残業を終えた佐藤は、駅まで歩く途中、腹痛に襲われた。脂汗が滲む。近くの公園の公衆トイレに駆け込むしかなかった。
蛍光灯が一つ点滅している。男子トイレには個室が四つ並んでいた。
手前から三つ目の個室に入ろうとしたとき、奥から二番目の扉が開いた。中年の男が出てきて、佐藤とすれ違った。男の顔は青白く、目だけが異様に見開かれていた。
「……入るな」
男は消え入るような声でそう呟いて、よろめきながら出口へ消えていった。
佐藤は首を傾げた。変な奴だ。手前から三つ目の個室に入り、用を足した。
翌週。また深夜残業になった佐藤は、同じ時刻に同じ公園の前を通った。腹痛はなかったが、なぜか足がトイレへ向かっていた。
蛍光灯は今日も点滅していた。個室は四つ。奥から二番目の扉だけが、わずかに開いていた。
佐藤は吸い寄せられるように、その個室の前に立った。中を覗く。何もない。便器があるだけだ。
「……別に、普通じゃないか」
呟いて、佐藤は中に入った。鍵をかける。カチリ、という音が妙に大きく響いた。
用を足し終えて、立ち上がった瞬間だった。
扉の内側、佐藤の目の前に、文字が浮かび上がった。いや、違う。扉の外側に文字が浮かんでいるのが、透けて見えているのだ。
**佐藤健一**
自分の名前だった。
心臓が跳ねた。鍵を外そうとしたが、開かない。何度回しても、押しても引いても、扉はびくともしなかった。
「開けろ!誰か!」
叫んだ。だが声は個室の外に届いていない気がした。壁を叩く。音が吸い込まれていく。

パニックになりかけたとき、便器の水面に文字が浮かんだ。
**次の者が来るまで待て**
**次の者を中に入れろ**
**そうすれば お前は出られる**
佐藤は震えた。次の者。つまり、誰かを身代わりにしろということか。
そんなことできるわけがない。佐藤は扉を叩き続けた。
時間が経った。
腕時計を見る。午前1時5分。入ってから10分しか経っていない。だが体感では何時間も経った気がした。
また時計を見る。午前1時6分。
1分しか経っていない。
佐藤は便座に座った。落ち着け。朝になれば誰か来る。そうしたら助けを呼べる。
時計を見る。午前1時7分。
また見る。午前1時8分。
1分が、永遠のように長かった。
個室の中には何もない。音もない。蛍光灯の光だけが、変わらず照らし続けている。
佐藤は立ち上がり、また扉を叩いた。誰も来ない。
時計を見る。午前1時20分。
12分しか経っていない。だが佐藤の感覚では、何日も経ったような気がした。
空腹も喉の渇きも感じなかった。ただ時間だけが、異様に引き延ばされて流れていく。
午前2時。
佐藤は壁に背中を預けて座り込んでいた。もう何も考えられなかった。ただ時計の秒針を見つめていた。
一秒、一秒が、まるで一時間のように長い。
午前3時。
佐藤は床に横たわっていた。天井を見つめる。時間の感覚が完全に狂った。ここに入ってから何年も経った気がする。
午前4時。
もう時計を見るのも辛かった。たった3時間。でも永遠だった。
佐藤の精神が擦り切れていった。誰でもいい。誰か来てくれ。このままでは狂ってしまう。
そして午前5時過ぎ、ついに扉の外を誰かが通る気配がした。
佐藤は飛び起きた。
「助けてくれ!閉じ込められたんだ!」
声が枯れていた。
「……誰かいるのか?」
若い男の声だった。
「頼む!開けてくれ!」
扉のノブが回った。外から開けようとしている。だが開かない。
「おかしいな……鍵がかかってる」
若い男が呟く。
佐藤の頭に、便器に浮かんだ文字が蘇った。
**次の者を中に入れろ**
いや、そんなことできない。でも、でも……このままでは……。
佐藤は4時間の地獄を思い出した。いや、体感では何年も、何十年も閉じ込められていた気がする。もう耐えられない。
「頼む、開けてくれ!」
「わかった、今開ける!」
若い男は善意で答えた。
佐藤は震える手で鍵を回した。カチリ。今度は軽く開いた。
扉が開く。若い男と目が合った。男は心配そうな顔をしていた。
「大丈夫ですか?」
佐藤は答えなかった。ただ若い男の肩を掴み、個室の中に押し込んだ。
「え、ちょっと……!」
若い男がバランスを崩して中に倒れ込む。佐藤は素早く外に出て、扉を閉めた。
中から若い男の叫び声が聞こえた。
「何するんですか!開けてください!」
ドンドンと扉を叩く音。
佐藤は振り返らずトイレを出た。冷たい夜風が頬を撫でた。自由だ。助かったんだ。
罪悪感が胸を刺した。だが仕方なかった。あの地獄には、もう一秒たりとも耐えられなかった。
そう自分に言い聞かせながら、佐藤は家へ向かった。
翌朝、佐藤は目を覚ました。いつもの部屋、いつものベッド。
だが鏡を見て、凍りついた。
自分の額に、薄く文字が浮かんでいた。
**奥から2番目**
消そうと擦ったが、消えない。それどころか、時間が経つにつれて濃くなっていく気がした。
会社に行った。同僚が佐藤の顔を見て、首を傾げた。
「佐藤さん、額に何か……」
「え?」
「いや、気のせいか」
同僚は目を擦って、また仕事に戻った。
だが佐藤にはわかった。文字が見える人と見えない人がいるのだ。
その日の午後、取引先との打ち合わせで、相手の営業部長が佐藤の額を見つめた。
「……奥から2番目、ですか」
部長の顔が青ざめた。
「あなたも、入ったんですね」
佐藤は何も言えなかった。
「私もです。5年前に」
部長は小さな声で続けた。
「でも、出られたんですよ。誰かを身代わりにして」
佐藤は頷いた。
「ただ、」部長は俯いた。「それからずっと、この印が消えないんです。そして、印がある人間には、ある宿命が課されます」
部長は佐藤の目をまっすぐ見た。
「あなたの周りの人が、いつかあの個室に入ります。家族、友人、同僚。誰かが必ず入る。そして助けを求める。でもあなたは助けてはいけない」
部長の声が震えた。
「もし助けたら、あなたがまた閉じ込められる。だから見捨てなければならない。何度も、何度も」
佐藤の背筋が凍った。
「私はこの5年で、3人見捨てました。部下、友人、弟」
部長は笑った。だがそれは笑顔ではなく、歪んだ絶望だった。
「奥から2番目に入った者は、一時的に出られる。でも代償として、一生、人を見殺しにし続けなければならない。それが本当の呪いなんですよ」
佐藤は何も言えなかった。
その夜、佐藤の携帯が鳴った。大学時代の友人からだった。
「佐藤、今どこ?実は……変なことになってて」
友人の声は震えていた。
「公園のトイレに入ったんだけど、扉が開かなくて……お前、近くだろ?来てくれないか」
佐藤の手から携帯が滑り落ちそうになった。
「……どこの公園?」
「駅前の……奥から2番目の個室なんだ」
佐藤は電話を切った。
友人からまた電話がかかってきた。無視した。何度も、何度もかかってきた。
やがて着信は止んだ。
翌日、友人の訃報を聞いた。公園のトイレで心臓発作を起こしたらしい。発見が遅れて、手遅れだった。
葬儀に出た佐藤の額には、文字がさらに濃く刻まれていた。
そして佐藤は理解した。
奥から2番目の個室から出られたことは、救済ではなかった。
それは、永遠に人を裏切り続ける地獄の始まりだった。
誰かを犠牲にすれば助かる。そう思って個室を出た。
だがそれは罠だった。本当の苦痛は、出た後に待っていた。
佐藤は鏡を見た。額の文字が、まるで焼印のように熱を持っている気がした。
次は誰だ。次は誰を見捨てる。
妻か。息子か。それとも……。
ピリリリリ!
心臓が跳ねた。佐藤の携帯が震えたのだ。
恐る恐る携帯の画面に目を落とすと、最も見たくない名前が浮かび上がった。
……息子からのメールだった……。

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