深夜二時。俺は一人、バイト先の倉庫で棚卸しをしていた。
フリーター三年目。こんな時間に一人で作業するのも慣れたものだ。店長は「明日の朝までに終わらせといて」とだけ言い残して帰った。時給は深夜割増だし、文句はない。
スマホの明かりを頼りに、奥の棚まで歩く。
薄暗い倉庫の中、俺の足音だけが響く。在庫リストを確認しながら、段ボールの数を数えていく。単調な作業だが、嫌いじゃない。誰にも邪魔されないこの静けさが、むしろ心地いい。
ガシャン。
突然、背後で音がした。
振り返ると、三列目の棚が崩れている。段ボールが散乱し、金属製の棚板が床に倒れていた。
「……風か?」
窓は閉まっている。エアコンも止めた。地震でもない。
俺は首を傾げながら近づいた。棚を起こして、段ボールを拾い集める。別に大したことじゃない。固定が甘かっただけだろう。
作業を再開する。
十五分後。
ガシャン。
また同じ音。今度は一列目の棚だ。
「おい、マジかよ……」
さっきと同じように、棚が倒れて段ボールが散らばっている。俺は舌打ちしながら駆け寄った。これじゃ棚卸しが進まない。
棚を起こしながら、ふと違和感を覚えた。
倒れた棚板に、何かついている。
埃の積もった金属面に、くっきりと残る痕。
手の跡だ。
五本の指が、内側から棚を押したような形で残っている。まるで誰かが棚の中から這い出そうとしたかのように。
「……いや、待て」
俺は冷静に考えようとした。搬入作業の時についた跡かもしれない。でも、この倉庫で扱ってるのは食品だ。誰も棚の内側なんか触らない。
それに、この手の跡、妙に小さい。
子供の手のようだ。
背筋が冷たくなる。俺は立ち上がり、倉庫全体を見渡した。
誰もいない。
当たり前だ。鍵は俺が持っている。入り口は一つだけ。窓は全て施錠されている。
「気のせいだ」
そう呟いて、作業を続ける。
だが手は震えていた。在庫リストの文字が頭に入ってこない。何度も同じ段ボールを数え直す。
時計を見る。二時四十分。
あと三時間もある。
「早く終わらせよう」
俺は作業スピードを上げた。とにかく、ここから出たかった。
ガシャン。
三度目。
今度は目の前の棚だ。
俺が段ボールを手に取ろうとした瞬間、目の前で棚が崩れ落ちた。金属音が耳を突き刺す。段ボールが床に叩きつけられ、中身が飛び出す。
俺は後ずさった。
倒れた棚板を見る。
また、手の跡。
さっきと同じ。五本の指。内側から押した痕。子供の手。
いや、違う。
今回は二つある。
左右の手が、まるで這い出そうともがいたように残っている。

「誰だ!」
俺は叫んだ。声が倉庫中に反響する。
返事はない。
「誰かいるなら出てこい! ふざけんな!」
静寂。
自分の荒い息遣いだけが聞こえる。
俺は携帯を取り出した。店長に電話しようとする。でも、何て言えばいい? 「棚が勝手に倒れます」? 「手の跡があります」? 笑われるだけだ。
それに、本当に誰かいるなら、警察を呼ぶべきだ。
でも、いない。絶対にいない。この倉庫には俺しかいない。
「落ち着け……落ち着け……」
俺は深呼吸した。理性的に考えよう。棚の固定が全体的に緩んでいるんだ。それだけだ。手の跡は、きっと前からあった。気づかなかっただけ。
そうだ。そうに決まってる。
俺は倒れた棚を無視して、別の列に向かった。とにかく作業を終わらせる。数を数えて、リストに記入する。機械的に手を動かす。
考えるな。考えるな。
十分が過ぎた。
何も起きない。
よかった。もう大丈夫だ。
ガシャン。
四度目。
俺の真横の棚が倒れた。
あまりに近くて、俺の肩に金属板が当たる。痛みが走る。
「くそっ!」
俺は棚から飛び退いた。
そして見てしまった。
倒れた棚板についた手の跡。
さっきと同じ。子供の手。五本の指。内側から。
でも今回は違う。
手の跡が、新しい。
埃がない。さっき、今さっき、ついたばかりのように鮮明だ。
「あ……あ……」
言葉にならない。
理解したくなかった。でも理解してしまった。
誰かが、棚の中にいる。
いや、いた。
ずっと前から。
この倉庫の棚の中に。
「嘘だ……嘘だろ……」
俺は後ずさる。
でも、どこに逃げればいい? この倉庫全体が棚で埋め尽くされている。どの棚にも、もしかしたら……
ガシャン。ガシャン。ガシャン。
連続で倒れ始めた。
あちこちで棚が崩壊する。金属音が重なり合い、耳をつんざく。段ボールが床を転がる。
俺は走った。
出口に向かって全力で走る。
でも足が絡まる。散乱した段ボールに躓く。転びそうになりながら、必死で走る。
目の前の棚が倒れる。
道を塞ぐ。
俺は迂回した。別の通路を抜ける。
また棚が倒れる。
「やめろ! やめてくれ!」
叫びながら走る。
汗が目に入る。視界が歪む。
あと少し。あと少しで出口だ。
ガシャン。
最後の棚が、出口の直前で倒れた。
俺は立ち止まった。
倒れた棚を見る。
手の跡。
また、手の跡。
でも今回は違う。
手の跡が、こっちを向いている。
外側についている。

誰かが、棚の外から、こっちから、中に押し込まれたように。
「あ……」
理解した。
全部、逆だったんだ。
手の跡は、中から這い出ようとしたんじゃない。
外から、押し込まれたんだ。
誰かが。
何かが。
この倉庫で。
俺の頭が真っ白になる。
「違う……違う……俺は……俺は何も……」
記憶が蘇る。
三年前。
バイトを始めたばかりの頃。
深夜の倉庫。
俺は一人じゃなかった。
もう一人、バイトがいた。
高校生の子。名前も顔も思い出せない。いや、思い出したくない。
あの子が言った。
「ねえ、この奥って何があるんですか?」
「さあ。行ったことない」
「じゃあ、見に行きましょうよ」
「いいけど」
一緒に奥まで行った。
一番奥の棚。
あの子が中を覗き込んだ。
「暗くて見えないです」
「そりゃそうだろ」
その時。
棚が揺れた。
俺は、咄嗟に、
押した。
何で押したのか、自分でもわからない。
ふざけてたのか。
驚かそうとしたのか。
でも、押した。
棚を。
あの子ごと。
倒した。
「痛っ!」という声。
でもすぐ、笑い声に変わった。
「もう、ひどいですよ!」
あの子は起き上がった。
笑ってた。
「大丈夫?」
「平気です。びっくりしました」
それで終わりだった。
次の日、あの子は来なかった。
その次も。
店長に聞いた。
「ああ、辞めたって連絡あったよ」
それだけ。
俺は忘れた。
忘れたはずだった。
でも。
もし。
もし、あの時。
あの子が起き上がらなかったら?
もし、笑い声じゃなかったら?
もし、俺が思い込んでただけだったら?
「違う……違う……あの子は笑ってた……立ち上がってた……」
ガシャン。
目の前の棚がまた倒れる。
手の跡。
小さな手。
子供の手。
いや、違う。
高校生の手だ。
「やめろ……やめてくれ……」
俺は膝をつく。
倉庫中の棚が倒れる音が止まらない。
金属音。
段ボールの音。
でも、それ以外は。
何も聞こえない。
声も。
足音も。
何も。
ただ、倒れ続ける棚と。
増え続ける手の跡だけ。
俺は床に座り込んだ。
もう逃げられない。
逃げる意味もない。
ずっと、ここにいたんだ。
あの子は。
俺が押した棚の下で。
三年間。
ずっと。
倉庫が静かになった。
全ての棚が倒れ終わった。
俺は動けない。
ただ、床に座って、周りを見渡す。
無数の手の跡。
全部、同じ大きさ。
全部、同じ形。
全部、あの子の手。
俺は何も言えなかった。
言葉が出ない。
ただ、そこに座っている。
夜明けまで。
ずっと。
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