旧校舎の取り壊しが決まったのは、秋の終わりだった。
放送部の三年生、倉田は最後の記念番組を作ろうと思い立った。テーマは「消えゆく旧校舎の記憶」。古びた木造の廊下、軋む階段、ひび割れた窓ガラス。どれも懐かしさと寂しさを帯びた風景だった。
「倉田先輩、あっちの教室、黒板が外れかけてますよ」
後輩の遠藤が声を上げた。三階の奥、誰も使わなくなった教室だ。倉田が近づくと、確かに黒板の右端が壁から浮いている。試しに引っ張ってみると、思いのほか簡単に外れた。
埃が舞い上がる。
その奥に、何かが見えた。
壁に、深く彫り込まれた跡。逆さまの五芒星だった。星の頂点が下を向き、五つの先端がそれぞれ壁に食い込んでいる。彫られたというより、えぐられたような荒々しさがあった。

「なんだこれ……」
倉田は思わず呟いた。遠藤も後ろから覗き込む。
「昔の卒業生のいたずらですかね」
「にしては、深すぎる」
倉田は指で星の溝をなぞった。冷たかった。石膏の壁を削るには、相当な時間と労力が必要だったはずだ。それに、黒板の裏という隠れた場所にわざわざ彫る理由が分からない。
「これ、撮影しましょうよ。ミステリアスで番組映えしますよ」
遠藤が無邪気に言った。倉田は少し躊躇したが、結局頷いた。こんな奇妙なものが残っているなら、記録する価値はある。そう自分に言い聞かせた。
カメラを回し始めた時だった。
教室の奥で、何かが動いた気がした。倉田は咄嗟にカメラを向ける。だが、そこには何もない。古びた教卓と、倒れた椅子があるだけだ。
「……気のせいか」
撮影を続けた。黒板裏の星を様々な角度から映す。アップで撮ると、溝の底に何か黒いものが詰まっているのが見えた。墨か、それともカビか。
その時、教室の扉が勢いよく閉まった。
バタンという音が廊下に響く。二人は同時に振り返った。風だ、と倉田は思った。旧校舎は隙間だらけで、よく風が吹き抜ける。
「びっくりした……」
遠藤が胸を撫で下ろす。倉田も安堵の息を吐いた。
「もう十分撮れたし、戻ろうか」
そう言って、黒板を元に戻そうとした時だった。
星の中心に、何か文字のようなものが彫られているのに気づいた。倉田はスマホのライトで照らす。
「たすけ……て?」
判読できた文字はそれだけだった。ひらがなで、震えるような線で彫られている。他にも何か書いてあるようだが、摩耗して読めない。
「先輩、早く帰りましょうよ。なんか気持ち悪いです」
遠藤の声に促され、倉田は黒板を壁に戻した。ネジはもう緩んでいたので、完全には固定できなかったが、とりあえず元の位置に収まった。
二人は教室を後にした。
廊下を歩きながら、倉田はふと思った。あの星は、誰かが助けを求めて彫ったのだろうか。それとも、誰かを封じるために彫ったのだろうか。
どちらにしても、もう確かめる術はない。
放送室に戻り、映像を確認した。問題なく撮れている。遠藤は「これ、絶対に話題になりますよ」と興奮気味だった。倉田も少しずつ、あの不気味さが薄れていくのを感じた。
結局、ただの落書きだったのだろう。深読みしすぎていた。
「編集、明日から始めましょう。今日はもう遅いし」
「了解です」
二人は放送室を出た。旧校舎の照明を消し、鍵をかける。外はもう暗くなっていた。
家に帰ってから、倉田はシャワーを浴びた。体についた埃を流しながら、ふとあの星のことを思い出す。でも、もうそれほど気にならなかった。むしろ、いい素材が撮れたという満足感の方が大きかった。
ベッドに入り、目を閉じる。
すぐに眠りに落ちた。
夢を見た。
旧校舎の教室。黒板の前に、誰かが立っている。顔は見えない。その人物は、何かを壁に彫り続けている。ガリガリという音が教室に響く。星が、少しずつ形になっていく。
「なぜ」と倉田は尋ねた。
その人物は振り返らなかった。ただ、彫り続けた。
「閉じ込めなきゃ」
掠れた声が聞こえた。
「出てきちゃうから」
倉田は目を覚ました。
汗びっしょりだった。時計を見ると、午前三時。まだ夜中だ。喉が渇いていたので、水を飲みに台所へ向かう。
スマホに着信が入っていた。遠藤からだ。時刻は午前二時半。倉田は折り返した。
「もしもし、遠藤? こんな時間にどうした」
電話の向こうで、遠藤が震えた声で言った。
「先輩……あの黒板、戻しちゃいけなかったんです」
「え?」
「星、あれ……封印だったんです。ネットで調べたら、逆さ五芒星は何かを閉じ込めるために使うって……」
倉田は苦笑した。
「遠藤、考えすぎだよ。ただの落書きだって」
「違うんです! さっき、窓の外に誰かいたんです。こっちを見てて……」
「気のせいだろ。落ち着けよ」
「でも……」
倉田は優しく諭した。取り壊される旧校舎に、そんなオカルトじみた話を結びつけるのは良くない。遠藤も疲れているんだろう。
「明日、ちゃんと話そう。今は寝ろ」
「……はい」
電話を切った。倉田は再びベッドに戻った。でも、なぜか眠れなかった。
翌朝。
学校に行くと、遠藤が来ていなかった。連絡もない。倉田は心配になり、遠藤の家に電話をかけた。
母親が電話に出た。
「遠藤くん、今朝早くに出かけたきり戻ってないんです。もしかして、学校に?」
倉田は首を横に振るような気持ちで答えた。
「いえ、来てません」
遠藤の母親の声が不安そうに震えた。倉田は嫌な予感がした。
放課後、旧校舎に向かった。もしかしたら、遠藤はあの教室に戻ったのかもしれない。黒板を確かめに。
三階の廊下は静まり返っていた。
あの教室の扉を開ける。
黒板が、床に落ちていた。
壁の星が、剥き出しになっている。
そして、星の中心に。
遠藤が、いた。
壁に埋まるように、星の中に。
目だけがこちらを向いていた。口は動かない。体は壁と一体化している。ただ、目だけが。助けを求めるように。

倉田は悲鳴を上げることもできなかった。
ただ、理解した。
黒板を外したこと。星を露わにしたこと。それが、何かを解放してしまったのだと。
そして、遠藤は星を塞ごうとして、代わりに取り込まれたのだと。
倉田は震える手で、黒板を拾い上げた。壁に戻さなければ。封じなければ。それが、最善だと思った。
黒板を壁にあてがう。
遠藤の姿が隠れる。
ネジを締めようとした時、背後で何かが動く気配がした。
振り返ることはできなかった。
教室の扉が、ゆっくりと閉まっていく音だけが聞こえた。
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それから数日後、放送部の部室で倉田の荷物が見つかった。カメラには、旧校舎の映像が残っていた。黒板裏の星も、ちゃんと映っていた。
でも、倉田の姿はどこにもなかった。
取り壊しは予定通り進められた。
旧校舎は、跡形もなく消えた。
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