佐藤は「奥湯の宿 糸屋」に着いたとき、すでに夜の十時を過ぎていた。
予約サイトには「山奥の秘湯 創業不明 口コミ数件」とだけあった。安かったから選んだ。それだけだった。
引き戸を開けると、女将が待っていた。
年齢がわからなかった。若くも老いてもなく、ただそこに存在していた。白い肌に黒い帯、動くたびに着物の袖が揺れた。袖口から伸びる指が、細すぎた。関節の数が、一つ多い気がした。
「お待ちしておりました」
その声は低く、どこかくぐもっていた。
案内された部屋は二階の奥だった。廊下を歩くあいだ、天井が低く、佐藤は何度か頭をかがめた。女将は一度も頭をかがめなかった。それでいて、天井に触れてもいなかった。
部屋に入ると、女将は振り返らずに言った。
「夜中に廊下へ出ないでください」
それだけ言い、障子を閉めた。
部屋は六畳。行灯が一つ。布団はすでに敷かれていた。卓袱台の上に茶と、小さな紙が置いてあった。
〈何があっても、天井を見ないでください〉
佐藤は紙を裏返した。何も書いていなかった。
筆跡は震えていた。インクではなく、茶色がかった何かで書かれていた。
誰が書いたのか。女将が置いたとは思えなかった。この部屋に以前泊まった誰かが、残していったものだろうと思った。
佐藤はその紙を卓袱台の端に置き、茶を飲んだ。
疲れていた。考えるより先に横になった。行灯を消し、目を閉じた。
眠れなかった。
静かすぎた。虫の声もない。雨の音もない。建物が軋む音すらしなかった。その沈黙が、じわじわと重くなっていった。
気づいたとき、佐藤は天井を見ていた。
暗くて何も見えない。当然だ。だがその暗闇に、何かがいる感覚があった。面積のある、重さのある、こちらを見ている何かが。
佐藤は目を逸らした。
壁を見た。床を見た。どこを見ても、視線が天井へ引き戻された。
しかたなく、また天井を見た。
暗闇の中に、光沢があった。
天井一面に張られた糸が、行灯の消えた部屋でわずかに光っていた。規則的で、幾何学的で、美しいとさえ思った。その中心に、穴があった。
穴の縁から、脚が出ていた。
長く、黒く、体の割に細い脚が、八本。穴の縁をゆっくりと撫でるように動いていた。急がなかった。焦っていなかった。ただ、待っていた。

穴の奥に、目があった。
八つ、並んでいた。
佐藤は声を上げることができなかった。体が動かなかった。ただ目だけが動いて、その八つの目と、視線が合った。
目が、細くなった。
笑っているように見えた。
次の瞬間、廊下から声がした。
「今すぐ窓から逃げてください」
若い女の声だった。切迫していた。しかしどこか遠く、壁の向こうから聞こえるような、薄い響きだった。
「一階まで飛んでも怪我はしない。お願い、今すぐ逃げて」
懇願する声だった。泣いているようでもあった。
佐藤の体が動いた。布団から出て、窓に手をかけた。外は暗かったが、木々の輪郭が見えた。高さは三メートルほど。飛べる。
窓を開けた。冷たい夜気が入ってきた。
廊下の声が続いた。
「私は逃げられなかった。あなただけでも」
その言葉の意味を、佐藤は考えなかった。
考える前に、天井から女将の声がした。
「どこへ行くんですか」
甘い声だった。引き止めるのではなく、ただ問いかけるような、穏やかな声だった。
「せっかく来てくれたのに」
佐藤は窓枠に手をかけたまま、動きを止めた。
廊下の声がもう一度聞こえた。
「逃げて。私みたいになる前に」
なのに佐藤は、窓を閉めた。
なぜそうしたのか、自分でもわからなかった。女将の声が怖かったわけではなかった。むしろ逆だった。あの声を聞いた瞬間、全身から力が抜けて、怖くなくなった。
廊下の声が途絶えた。
諦めたのか、あるいは、もう届かなくなったのか。
布団に戻った。横になった。目を閉じた。
天井から、細い何かが顔に触れた。
糸だった。
一本ではなかった。
何本もの糸が、ゆっくりと、丁寧に、顔の輪郭をなぞるように巻かれていった。急がなかった。乱暴でもなかった。まるで、大切なものを包むように。
佐藤は抵抗しなかった。
できなかったのか、しなかったのか、自分でももうわからなかった。
翌朝、「糸屋」に電話が入った。
佐藤の家族からだった。昨夜から連絡が取れない、そちらに泊まっているはずだが、と。
女将は答えた。
「昨夜は、どなたもお泊まりになっておりませんでしたよ」
受話器の向こうで、沈黙があった。
女将は続けた。
「ただ、今夜でしたら、ちょうどお部屋が空いておりますが」
その夜、二階の奥の部屋の廊下から、声が聞こえた。
「今すぐ窓から逃げてください」
声は二つになっていた。
そのうちの一つは、今朝まで、佐藤の声だったものだ。
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