三年二組の担任、桐島麻衣は放課後の教室で画用紙の束を抱えていた。
図工の時間に描かせた「自分の家」の絵だ。
子どもたちのクレヨン画はどれも愛らしく、歪んだ屋根や丸い窓が並んでいる。麻衣はひとつひとつに赤ペンでコメントを書きながら、机の端に重ねていった。
最後の一枚を手に取ったとき、指が止まった。
児童名欄は空白だった。
絵には大きな家が描かれていた。二階建て、三つの窓、赤い屋根。どこにでもある家だ。ただ、筆圧が妙に強い。クレヨンが紙に食い込んでいた。
麻衣は名前を確認しようと出席簿を広げたが、三年二組は三十一人。手元の枚数を数えると、三十二枚あった。
「……数え間違えたかな」
呟いて、無名の絵を職員室の引き出しにしまった。
翌朝、絵を確認すると、家の隣に小さな木が一本増えていた。
麻衣は三度、数えた。昨日は確かになかった。
子どもがいたずらしたのか。でも職員室には鍵をかけている。第一、なぜこの絵だけに。
その日の放課後、麻衣は絵をスマートフォンで撮影してから引き出しに戻した。翌朝、画像と見比べる。木の位置が微妙にずれていた。幹が、昨日より太い。
一週間が経った。
絵の中の庭には花壇が生まれ、洗濯物が窓から下がり、表札が追加された。表札の文字は判読できないほど小さかったが、麻衣は虫眼鏡で覗いた。
「桐島」と書いてあった。
麻衣は椅子ごと後ずさった。
その夜、家に帰れなかった。ビジネスホテルに泊まり、翌朝一番で職員室に駆け込んだ。
引き出しを開ける。
家の絵に、新しい部屋が増えていた。
一階の右端、昨日まで壁だった場所に、小さなドアが描かれている。ドアの向こうは塗りつぶされた黒ではなく、部屋の輪郭だった。窓がある。ベッドがある。
そしてベッドの上に、人が横たわっていた。
麻衣は絵を裏返した。
深呼吸をした。考えた。
子どもの悪戯ではあり得ない。毎朝鍵を開けるのは自分だ。防犯カメラの映像を確認しよう。絵を証拠として教頭に見せよう。それでも納得できなければ廃棄する。ただそれだけだ。
カメラの映像には、誰も映っていなかった。引き出しに近づいた人間はいない。麻衣を含めて。
教頭は困り顔で、「疲れてるんじゃないか」と言った。
麻衣は絵を持ち帰ることにした。
自宅で管理し、変化を記録する。変化が確認できれば証拠になる。できなければ、自分の錯覚だと認める。どちらにしても決着がつく。
その夜、麻衣はダイニングテーブルに絵を置き、向かいの椅子に座って眺めた。
眠らなかった。
朝になった。
絵は変わっていなかった。
麻衣は安堵した。錯覚だったのだ。疲弊と思い込みが重なった、ただの錯覚。
立ち上がり、台所でコーヒーを淹れた。カップを持ってダイニングに戻ったとき、絵に目を向けた。
「知らない部屋」の窓に、人の顔があった。
目は細く、口は横一文字に閉じていた。髪は長い。
顔の輪郭は桐島麻衣に似ていた。
麻衣は絵を引き裂こうとした。両手で端を掴んで、力を込めた。
画用紙は、破れなかった。
濡れた紙のように指が滑り、端が手の中でするりと逃げた。床に落とした。拾って、ハサミを取り出した。刃を当てた瞬間、ハサミの刃が折れた。

ライターで角に火を近づけた。燃えなかった。
麻衣はその場に座り込んだ。頭を抱えた。考えた。考え続けた。
もし最初から捨てていれば。職員室に置きっぱなしにしていれば。手に取らなければよかった。名前を読もうとしなければ。
でも麻衣は思い出した。
最初に絵を手にした夜、奇妙だと思いながら、どこかで期待していた。謎が解ける瞬間を。「なんだ、そういうことか」と笑える結末を。
自分は怖いもの見たさで、ここまで来た。
疲れ果てた麻衣は、そのままダイニングの床で眠り込んだ。
目が覚めたのは深夜だった。
体が冷えていた。顔を上げると、テーブルの上の絵が目に入った。
「知らない部屋」の窓から、顔が消えていた。
ベッドに横たわっていた人の姿も、消えていた。
部屋ごと、綺麗に塗り消されていた。まるで、もうそこには用がないというように。
麻衣は寝室に移動した。
ベッドに倒れ込み、天井を見上げた。
天井を見た。
天井の隅、壁との境目に、細い線があった。
四角い輪郭。
小さなドア。
そしてそのドアの隙間から、何かがこちらを覗いていた。
目が細く、口は横一文字に閉じていた。髪が長い。
天井の顔は、ゆっくりと笑った。
麻衣は声を上げようとした。
でも気づいた。
絵の中の「知らない部屋」に描かれていたのは、ベッドの上に横たわる人間だった。
今、自分はベッドの上に横たわっている。
絵は完成していた。
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