幽霊博士の実験記録──AIが綴るショートホラーと恐怖作品紹介

「ホラー小説×AI創作」──AIが綴る怪談短編と、恐怖を解剖する作品紹介。

妖異抄#10「海坊主の波紋」

夜明け前の海は、いつもより静かだった。

沖へ出るために小舟の綱を解きながら、漁師の真一は眉をひそめた。風はない。潮も荒れていない。なのに、海面だけが落ち着きなく細かく揺れている。まるで、見えない何かが水の下で寝返りを打っているようだった。

「嫌な揺れだな……」

独り言は、やけに遠くへ吸われた。浜には真一のほか誰もいない。漁村の家々はまだ暗く、背後の国道を走る車の音すらしなかった。

それでも出ないわけにはいかない。昨夜、網を沈めたままだった。遅れれば魚が傷む。真一は櫓を押し、小舟を海へ滑らせた。
ふと、今朝自分が家のどの戸を開けて浜へ出たのか、思い出せないことに気づいた。

岸を離れても、海面の揺れは消えなかった。波ではない。うねりでもない。水面の一点一点が、何かを怖がるように小刻みに震えている。

真一は櫓を止め、暗い海を見回した。沖のほうで、ぬるりと黒いものが浮いた気がした。岩かと思ったが、このあたりに岩礁はない。

黒い塊は、すっと沈んだ。

その直後、小舟の底を下から軽く叩く音がした。こん、と。

真一の喉が鳴る。

「……魚だ。でかい魚だ」

言い聞かせる声は、自分でも弱々しいとわかった。

網を引き上げると、妙だった。魚は一匹もかかっていない。その代わり、網のあちこちに黒い長い髪が絡みついていた。海藻ではない。指に巻くと、ぬめり気のある人間の髪そのものだった。

真一は反射的にそれを海へ捨てた。だが、捨てた髪は沈まず、水面でゆらゆらと揺れ続けた。まるで水の上に誰かの頭だけが浮いているみたいに。
しかもそれは、潮に流されるでもなく、小舟と並ぶように漂っていた。

次の瞬間、海面全体の揺れがぴたりと止んだ。

静寂。

そして、小舟のすぐ横で、海が縦に割れるように盛り上がった。

最初は、ただ水面がそこだけ一段高くなったように見えた。
だが水が落ちるにつれ、その下から丸い額のようなものがぬらりと現れた。

巨大な黒い頭だった。

目も鼻も口もはっきりしない。ただ、人の顔らしき凹凸だけが、水をまとってぬらぬらと浮かんでいる。首から下は海の底まで続いているようで、どれだけ大きいのか見当もつかない。

真一は櫓を掴み、無我夢中で振り回した。「来るな!」

櫓は黒い頭を打ったはずなのに、手応えがない。水を殴っただけみたいにすり抜け、次の瞬間、櫓は真ん中からぼきりと折れた。

 

 

黒い顔のあたりから、声がした。

「おい」

それは低く、湿っていて、ひどく聞き慣れた声だった。
喉に冷たい水を詰まらせたまま、無理に言葉を押し出したような声だった。

「なんで、帰ってきた」

真一の全身が冷えきった。三年前、台風の夜に海で死んだ父の声だった。

「親父……?」

「おまえは、もう帰ってきてる」

意味がわからない。真一は舟の縁にしがみついた。海坊主は海面を揺らさず、ただそこにいた。なのに周囲の海だけが、また細かく震えはじめる。怖がっているのは自分ではなく、海そのもののようだった。

「家へ戻れ」

父の声が続く。

「浜へ上がるな。家へ戻れ。急げ」

真一は悲鳴のように息を吐き、小舟の向きを変えた。櫓は折れたが、流れに任せて岸へ寄せる。振り返る勇気はなかった。黒いものがまだ後ろにいる気配だけが、首筋に重くのしかかる。

やっと浜が見えた。
黒い砂の線まで見えた気がして、真一は初めて、助かると思った。

だが、舟が砂を噛んだ瞬間、真一は凍りついた。

浜に、自分が立っていた。

濡れた合羽を着た自分が、ぼんやりと小舟を見つめている。顔色は青黒く、胸のあたりが不自然にへこんでいた。三年前の台風の日、転覆した船の破片で胸を潰された遺体写真を、真一は村の駐在所で一度だけ見ていた。
そいつの足元には、足跡がなかった。

砂浜の自分が、ゆっくり口を開く。

「だから言ったろ」

それは、今朝から自分が何度も頭の中で聞いていた、自分自身の声だった。

「おまえは、もう帰ってきてる」

真一の記憶が、濁った海水みたいに逆流した。

台風。転覆。暗い水の底。必死に岸を目指したこと。家に帰り、妻に声をかけたのに、返事がなかったこと。村の誰も自分を見なかったこと。

それでも真一は、疲れているのだと思い込み、翌日も翌々日も海へ出た。魚が獲れなくなっても、村人が目を合わせなくても、自分は生きているのだと信じ続けた。

いや、信じるしかなかった。

砂浜の自分が、一歩ずつ近づいてくる。その足跡はつかない。

「海のもんは、海にいるかぎり、自分を見失える」

背後の海から、父の声がした。

「だが、陸へ上がれば、思い出す」

真一は首を振った。「違う、俺は生きてる。朝も飯を……」

言いかけて、止まった。最後に何を食ったのか思い出せない。妻の顔も、もう輪郭が曖昧だ。家の中の匂いも、布団の温度も、何一つ確かなものがない。

あるのは海だけだった。毎朝、揺れる海面だけが、自分を迎えていた。

砂浜の自分が、目の前に立つ。腐った潮の匂いがした。

「戻れ」

それは命令ではなく、真一自身の願いのように聞こえた。

逃げようとして足を動かした瞬間、砂浜の感触が消えた。見ると、自分はまだ小舟の中にいた。岸だと思っていた場所は、月明かりに白く光るだけの沖だった。浜も家も村も、どこにもない。

周囲の海面が、いっせいに細かく揺れはじめる。

その無数の揺れのひとつひとつの下に、黒い丸い頭があった。海坊主は一体ではなかった。見渡す限り、海の下でこちらを見上げている。

真一は声も出せず、折れた櫓を抱えた。

いちばん近い海面が、静かに盛り上がる。

現れたのは父ではなかった。真一自身の顔だった。次も、その次も、そのまた次も、すべて真一の顔だった。溺れた顔、腐った顔、膨れた顔、目を見開いた顔。海に映る月の数だけ、自分の死に顔が浮かび上がる。

「帰れ」

それらが一斉に囁いた。

小舟の底を、下から無数の手が叩きはじめた。こん、こん、こん、こん、と、葬列みたいに規則正しく。
ひとつも乱れず、同じ間隔で、同じ強さで。

夜が明けるころ、浜辺には誰もいなかった。

ただ、凪いだ海だけが静かに広がり、その水面のあちこちで、理由もなく小さな揺れが続いていた。
夜が明けても、海だけはまだ夜の中にあるようだった。


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