山あいの古い旅館に、田中幸子が仲居として働き始めて三ヶ月が経った。
築百年を超える「花結び旅館」は、廊下の板が軋み、夜になると山風が障子をかたかたと鳴らした。それでも幸子は気に入っていた。女将の梅野さんは口数が少ないが親切で、先輩仲居の房江さんはよく面倒を見てくれた。
ただ、一つだけ気になることがあった。
においだった。
旅館のある場所からは少し離れた谷の向こうに、火葬場がある。風向きによって、甘ったるい、脂の焦げたような臭気が漂ってくることがあった。最初は我慢できなかったが、三ヶ月も経つと慣れた。房江さんは「ここらはずっとそういうもんです」と言って、気にする様子もなかった。
ある晩秋の夜、幸子は遅い夕食の膳を運ぼうとして、廊下で足を止めた。
奥の十二号室から、においがする。
焦げた、甘い。あの臭気だった。でも今夜、風はない。
幸子は首をかしげながら、それでも膳を持って歩き出した。十二号室の客は、今朝チェックインしたばかりの老婆で、名前は「瀬川」と台帳にあった。
「失礼いたします」
障子を開けた瞬間、においが濃くなった。
瀬川と名乗った老婆は、布団の上に正座していた。白い着物を着て、両手を膝に揃え、微動だにしない。蝋燭の火のように静かだった。
幸子が膳を置こうとすると、老婆がゆっくりと顔を上げた。
顔が、なかった。
いや、正確には——あった。だが何かがおかしかった。鼻も口も目もある。でもそれが、顔として機能していない気がした。まるで顔の形をした何か別のものが、皮膚の内側に詰まっているような。
「ありがとうございます」
声だけは、普通だった。老婆らしい、かすれた声。
幸子は何も言えず、頭を下げて廊下へ出た。障子が閉まった途端、冷や汗が背中を伝った。でも考えてみれば何がおかしかったのか、うまく言葉にできない。疲れているのかもしれない。そう思うことにした。
翌朝、幸子は女将の梅野さんに報告した。
「十二号室のお客様、少し様子が変わっていらっしゃるように感じたのですが」
梅野さんは帳面に目を落としたまま、静かに言った。
「瀬川さんは、長逗留のお客様よ。あなたがここに来る前から、時々いらっしゃっているの」
「そうなんですか」
「失礼のないようにね」
それだけだった。梅野さんはそれ以上何も言わず、幸子もそれ以上聞けなかった。
その夜も、幸子は十二号室の膳を担当した。今度は房江さんも一緒だった。
房江さんは障子の前で一瞬、ほんの一瞬だけ——鼻をひくつかせた。
「房江さん、においしますよね」と幸子は小声で言った。
房江さんは幸子を見て、静かに微笑んだ。
「どんなにおい?」
「焦げた、甘いような……」
房江さんはゆっくりと首を横に振った。
「私には何もわかりません」
その言い方が、幸子には少し引っかかった。「においません」ではなく、「わかりません」。
十二号室の障子が、内側から開いた。
老婆が立っていた。昨夜と同じ白い着物。同じ表情のない顔。でも今夜は、その後ろに——もう一人いた。
幸子は目を凝らした。薄暗い部屋の奥に、小柄な影が座っている。女の人のように見えた。俯いていて、顔は見えない。
「あのう、お連れの方は……」
老婆は静かに首を横に振った。
「いませんよ」
部屋の奥の影が、ゆっくりと顔を上げた。
幸子は声が出なかった。
その顔は、幸子自身の顔だった。
青白く、ぼんやりとして、まるで水の底から見ているような。でも確かに、幸子の顔だった。
房江さんが幸子の腕をそっと引いた。
「行きましょう」
廊下に出て、障子が閉まった。幸子は震える声で言った。
「見ましたか、部屋の奥に——」
「何も見えませんでした」房江さんは静かに言った。「何も」
その夜、幸子は眠れなかった。自分の顔が、なぜあそこにあったのか。老婆は何者なのか。房江さんは本当に見えなかったのか。
明け方近く、ふと気がついた。
三ヶ月間、一度も体調を崩していない。疲れを感じることもほとんどない。お客様に「あなたは感じのいい仲居さんね」とよく言われる。女将には「あなたは向いている」と言われた。
——向いている。
幸子はゆっくりと起き上がり、枕元の手鏡を手に取った。

部屋は暗い。月明かりだけが、鏡の表面をぼんやりと照らしていた。
幸子は自分の顔を見た。
鼻も、口も、目もある。
でもそれが、顔として機能していない気がした。
まるで顔の形をした何か別のものが、皮膚の内側に詰まっているような——。
鏡の中の幸子が、先に笑った。
幸子はまだ、口元に力を入れていなかった。
それでも鏡の中の笑顔だけが、仲居らしく、やわらかく深くなっていく。
——ああ、と幸子は思った。
お客様が見ていたのは、ずっとこちらだったのだ。
廊下の板が、軋んだ。
ゆっくりと、こちらへ近づいてくる足音がした。
幸子はそれが誰なのかを、なぜかすでに知っていた。知っているのに、声が出なかった。逃げようとも思わなかった。
ただ鏡の中の顔を見つめながら、いつからこうだったのだろうと考えた。
谷の向こうから、甘いにおいが漂ってきた。
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