幽霊博士の実験記録──一話完結の現代怪談・短編ホラー集

「ホラー小説×AI創作」──AIが綴る怪談短編と、恐怖を解剖する作品紹介。

狂気譜#09「鏡の住人」

引っ越してきたのは、三月の終わりだった。

築十年の1LDK、家賃は六万八千円。駅から徒歩八分。特に気に入った点はなかったが、特に嫌な点もなかった。佐藤健一、三十二歳、独身。それが俺だ。

段ボールを運び込みながら、健一は部屋の隅々を確認した。

リビング、キッチン、バスルーム、クローゼット。どこも問題なかった。強いて言えば、クローゼットの内側に小さな傷跡があったが、それくらいは気にしない性格だった。

最初の異変は、引っ越しから三日後の夜に起きた。

仕事から帰り、シャワーを浴びて、ビールを一缶開けた。何気なく窓の外を見た瞬間、健一は動けなくなった。

向かいのマンションの窓に、自分がいた。

同じ部屋の造り。同じ位置に置かれたテーブル。同じ色のソファ。そしてそこに座る男は、今の健一と全く同じ格好をしていた。グレーのスウェット、右手にビール缶。

 


健一は手を上げてみた。

向こうは上げなかった。

ただ、こちらを見ていた。

「見間違いだ」と自分に言い聞かせて、カーテンを閉めた。翌朝、向かいのマンションを確認したが、問題の窓は閉まっており、カーテンがかかっていた。

その後、一週間は何も起きなかった。

健一は忘れかけていた。仕事が忙しかったし、気を紛らわす理由には事欠かなかった。

異変が再び現れたのは、金曜の深夜だった。

トイレに起きた帰り、廊下の端に人影を見た。暗くてよく見えなかったが、体型が自分に似ていた。健一は電気をつけた。誰もいなかった。

ただ、床に泥のような足跡が残っていた。

自分のスリッパの形と、まったく同じサイズだった。

それから健一は眠れなくなった。夜中に何度も目が覚め、部屋の中を確認した。何もなかった。何もないことが、かえって怖かった。

転機は、その翌週の日曜日に訪れた。

朝、目を覚ますと、リビングのソファに誰かが座っていた。

健一は息を飲んだ。

ゆっくりと男が振り返った。

自分の顔だった。

全く同じ顔、同じ髪型、同じ目の下のクマ。男は健一を見ても驚かなかった。まるで当然のことのように、静かな声で言った。

「来たか」

健一は後ずさりした。声が出なかった。

男は続けた。

「ここには、俺が先にいた」

「何を言ってる、俺の部屋だ」と健一はようやく声を絞り出した。

男は首を横に振った。

「三月の終わりに引っ越してきて、窓の向こうに自分を見て、廊下で足跡を見つけた。そうだろう」

全部、当たっていた。健一は背中に冷たいものが走るのを感じた。

「俺は、お前の一週間前からここにいる」

男の目に感情はなかった。怒りでも哀しみでもなく、ただ事実を告げているだけの目だった。

「じゃあ、お前は何者だ」

「佐藤健一、三十二歳、独身。この部屋に引っ越してきた男だ」

男は立ち上がった。

それだけで、健一の足がすくんだ。男は近づいてくることなく、クローゼットを指差した。

「中を見ろ」

健一は動けなかった。しかし、見なければならないと感じた。何かが、そう命じていた。

震える手でクローゼットを開けた。

自分のスーツが並んでいた。自分のシャツが並んでいた。

そして一番奥に、もう一着、全く同じスーツが掛かっていた。袖に、小さな泥汚れがついていた。

「俺が来たとき、ここにあった」と男は言った。「お前が残していったものだ」

健一は振り返った。

男は消えていた。

部屋には健一だけが残された。静寂の中、健一はゆっくりとクローゼットの内側を見た。

小さな傷跡があった。

引っ越しのときから気づいていた、あの傷跡。

でも今初めて、それが文字だとわかった。

爪で引っ掻いたような細い線で、こう刻まれていた。

*「逃げるな」*

健一の脳裏に、引っ越し初日の記憶が蘇った。あの傷を見つけたとき、確かに「気にしない」と思った。なぜ気にしなかったのか。なぜあれほど自然に受け入れたのか。

その瞬間、玄関のチャイムが鳴った。

健一はドアを開けた。

宅配業者が段ボールを一箱持っていた。

「佐藤様ですよね?転居のお荷物です。三月のご依頼分です」

健一は受け取った。伝票の日付を確認した。

差出人欄には、自分の名前が書いてあった。旧住所は、この部屋の住所だった。送付先も、この部屋の住所だった。

そして備考欄に、一行だけメモがあった。

手書きで、自分の筆跡で、こう書かれていた。

*「次は、お前が先にいる側だ」*

段ボールの中身は、確認しなかった。

確認したら、全部終わってしまう気がした。

でも夜になると、健一は気づいてしまった。

今日から自分は、この部屋で「先にいる側」になったのだと。

そしてあの男が感じた恐怖を、次に来る「自分」に与えなければならないのだと。

与えたくなかった。

でも翌朝、健一は気がつくと窓の向こうを見ていた。向かいのマンションに、灯りがついていた。グレーのスウェットを着た男が、ビール缶を持ってこちらを見ていた。

健一は手を上げなかった。

ただ、見ていた。

そのとき、背後のクローゼットの中で、爪を立てる音がした。

かり、かり、と。

健一は振り返らなかった。

もう一人の自分が、そこにいるとわかっていたからだ。


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