引っ越してきたのは、三月の終わりだった。
築十年の1LDK、家賃は六万八千円。駅から徒歩八分。特に気に入った点はなかったが、特に嫌な点もなかった。佐藤健一、三十二歳、独身。それが俺だ。
段ボールを運び込みながら、健一は部屋の隅々を確認した。
リビング、キッチン、バスルーム、クローゼット。どこも問題なかった。強いて言えば、クローゼットの内側に小さな傷跡があったが、それくらいは気にしない性格だった。
最初の異変は、引っ越しから三日後の夜に起きた。
仕事から帰り、シャワーを浴びて、ビールを一缶開けた。何気なく窓の外を見た瞬間、健一は動けなくなった。
向かいのマンションの窓に、自分がいた。
同じ部屋の造り。同じ位置に置かれたテーブル。同じ色のソファ。そしてそこに座る男は、今の健一と全く同じ格好をしていた。グレーのスウェット、右手にビール缶。

健一は手を上げてみた。
向こうは上げなかった。
ただ、こちらを見ていた。
「見間違いだ」と自分に言い聞かせて、カーテンを閉めた。翌朝、向かいのマンションを確認したが、問題の窓は閉まっており、カーテンがかかっていた。
その後、一週間は何も起きなかった。
健一は忘れかけていた。仕事が忙しかったし、気を紛らわす理由には事欠かなかった。
異変が再び現れたのは、金曜の深夜だった。
トイレに起きた帰り、廊下の端に人影を見た。暗くてよく見えなかったが、体型が自分に似ていた。健一は電気をつけた。誰もいなかった。
ただ、床に泥のような足跡が残っていた。
自分のスリッパの形と、まったく同じサイズだった。
それから健一は眠れなくなった。夜中に何度も目が覚め、部屋の中を確認した。何もなかった。何もないことが、かえって怖かった。
転機は、その翌週の日曜日に訪れた。
朝、目を覚ますと、リビングのソファに誰かが座っていた。
健一は息を飲んだ。
ゆっくりと男が振り返った。
自分の顔だった。
全く同じ顔、同じ髪型、同じ目の下のクマ。男は健一を見ても驚かなかった。まるで当然のことのように、静かな声で言った。
「来たか」
健一は後ずさりした。声が出なかった。
男は続けた。
「ここには、俺が先にいた」
「何を言ってる、俺の部屋だ」と健一はようやく声を絞り出した。
男は首を横に振った。
「三月の終わりに引っ越してきて、窓の向こうに自分を見て、廊下で足跡を見つけた。そうだろう」
全部、当たっていた。健一は背中に冷たいものが走るのを感じた。
「俺は、お前の一週間前からここにいる」
男の目に感情はなかった。怒りでも哀しみでもなく、ただ事実を告げているだけの目だった。
「じゃあ、お前は何者だ」
「佐藤健一、三十二歳、独身。この部屋に引っ越してきた男だ」
男は立ち上がった。
それだけで、健一の足がすくんだ。男は近づいてくることなく、クローゼットを指差した。
「中を見ろ」
健一は動けなかった。しかし、見なければならないと感じた。何かが、そう命じていた。
震える手でクローゼットを開けた。
自分のスーツが並んでいた。自分のシャツが並んでいた。
そして一番奥に、もう一着、全く同じスーツが掛かっていた。袖に、小さな泥汚れがついていた。
「俺が来たとき、ここにあった」と男は言った。「お前が残していったものだ」
健一は振り返った。
男は消えていた。
部屋には健一だけが残された。静寂の中、健一はゆっくりとクローゼットの内側を見た。
小さな傷跡があった。
引っ越しのときから気づいていた、あの傷跡。
でも今初めて、それが文字だとわかった。
爪で引っ掻いたような細い線で、こう刻まれていた。
*「逃げるな」*
健一の脳裏に、引っ越し初日の記憶が蘇った。あの傷を見つけたとき、確かに「気にしない」と思った。なぜ気にしなかったのか。なぜあれほど自然に受け入れたのか。
その瞬間、玄関のチャイムが鳴った。
健一はドアを開けた。
宅配業者が段ボールを一箱持っていた。
「佐藤様ですよね?転居のお荷物です。三月のご依頼分です」
健一は受け取った。伝票の日付を確認した。
差出人欄には、自分の名前が書いてあった。旧住所は、この部屋の住所だった。送付先も、この部屋の住所だった。
そして備考欄に、一行だけメモがあった。
手書きで、自分の筆跡で、こう書かれていた。
*「次は、お前が先にいる側だ」*
段ボールの中身は、確認しなかった。
確認したら、全部終わってしまう気がした。
でも夜になると、健一は気づいてしまった。
今日から自分は、この部屋で「先にいる側」になったのだと。
そしてあの男が感じた恐怖を、次に来る「自分」に与えなければならないのだと。
与えたくなかった。
でも翌朝、健一は気がつくと窓の向こうを見ていた。向かいのマンションに、灯りがついていた。グレーのスウェットを着た男が、ビール缶を持ってこちらを見ていた。
健一は手を上げなかった。
ただ、見ていた。
そのとき、背後のクローゼットの中で、爪を立てる音がした。
かり、かり、と。
健一は振り返らなかった。
もう一人の自分が、そこにいるとわかっていたからだ。
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