田中誠は、残業を終えた午前二時、駅近くの公衆トイレに立ち寄った。
街灯が一本だけ瞬いている。コンクリートの壁は染みだらけで、排水溝からは腐った水の匂いが漂っていた。
個室は五つ。田中はいつも通り、手前から入ろうとした。
その時、トイレの入り口に貼り紙があることに気づいた。
黄色く変色した紙に、手書きの文字。
「毎月十三日の深夜は、奥から二番目の個室に入らないでください」
田中は苦笑した。都市伝説の類だろう。子供じみたいたずらか、あるいは管理者が面白半分に貼ったのか。スマートフォンで写真を撮り、SNSにでも投稿しようかと思った。
だが、ふと手が止まる。
今日は何日だったか。
カレンダーアプリを開く。
十三日。
田中の口元に、薄い笑みが浮かんだ。
「じゃあ試してみるか」
疲労と深夜特有の高揚感が、判断を鈍らせていた。
奥から二番目の個室。四番目のドアの前に立つ。

鍵はかかっていない。取っ手は冷たかった。金属の冷たさではなく、もっと深いところから来る冷たさ。骨まで届くような。
引いた。
個室の中は、他と変わらなかった。白い便器、薄汚れた壁、天井の蛍光灯がじじじ、と小さく鳴いている。
田中は中に入り、ドアを閉め、鍵を回した。
カチリ。
用を足しながら、田中はスマートフォンを眺めた。特に何も起きない。霊感など微塵もない自分には、何も見えないのかもしれない。
立ち上がり、ズボンを直し、ドアに手をかけた。
その時。
ドアの外側から、引っ掻くような音がした。
爪で、ゆっくりと。
ざり。ざり。ざり。
田中は動きを止めた。
「誰かいますか」
返事はない。ただ、引っ掻く音だけが続く。
鍵を開け、ドアを引いた。
誰もいない。
当然だ、と自分に言い聞かせる。
だが、ドアの外側に目をやった瞬間、田中の全身から血の気が引いた。
ドアに、文字が浮かんでいた。
白い塗装の中から、にじみ出るように。まるで木の内側から滲む樹液のように。
「田中 誠」
自分の、フルネームだった。
田中は後退り、壁に背中をぶつけた。
なぜ。なぜ名前を。
スマートフォンを取り出し、写真を撮ろうとした。シャッターを切る。
確認すると、写っているのは白いドアだけだった。文字はない。
もう一度、目を向ける。
文字は、まだそこにあった。
田中誠。田中誠。田中誠。
最初は一つだった文字が、じわじわと増えていく。同じ名前が、ドアを埋め尽くすように。
だが、よく見ると、すべて同じではなかった。
名前の横に、小さく日付が刻まれていた。
先月の十三日。
その前の十三日。
さらに、その前の十三日。
どれも、田中には覚えのない日付だった。
田中は叫んだ。個室を飛び出し、洗面台にぶつかり、転びそうになりながら出口へ向かった。
外に出た。夜風が頬を叩く。
振り返ると、トイレの入り口に貼られた黄色い紙が揺れていた。
田中は肩で息をしながら、紙を凝視した。
あることに気づく。
貼り紙の下の方、変色した紙の端に、小さな文字が続いていた。先ほどは気づかなかった部分。
「なぜなら、その個室は、入った者の名前を記録するからです」
記録。
田中は眉をひそめた。記録して、それで何だというのか。怖がらせたいだけなら、もっと直接的な文言にすればいい。
さらに下に、文字は続いていた。
「記録された者は、次の十三日に、必ずここへ戻ってきます」
戻ってくる。
田中はゆっくりと、その言葉を反芻した。
怖い話としては、陳腐なオチだ。来月また来てしまう、というだけの話か。それほど恐ろしくはない。
ほっとして、田中は踵を返した。
家に帰ろう。シャワーを浴びて、寝ればいい。
歩き出す。
だが、十歩も進まないうちに、田中は立ち止まった。
奇妙な感覚があった。
来た道を、確認する。駅から、このトイレに来るまでの道筋を。
記憶が、ない。
残業を終えたこと、駅を出たこと、そこまではある。
だが、なぜ今夜、このトイレに来ようと思ったのか。
田中はいつも、別の道を通って帰る。このトイレの前を通ることは、ほとんどない。
にもかかわらず今夜、なぜかここへ来た。貼り紙を見た。そして、禁じられた個室に入った。
まるで、引き寄せられたように。
田中は、ゆっくりと振り返った。
スマートフォンのカレンダーを、もう一度開く。
今日は十三日。
胃の底が、冷えた。
もしも貼り紙の言葉が本当なら、記録された者は次の十三日に戻ってくる。
ならば自分は。
自分は今夜、初めてここへ来たのか。
それとも。
ポケットに手を入れると、何かが触れた。小さな紙切れ。取り出すと、ぐしゃぐしゃに丸められたレシートだった。
広げると、レシートではなかった。
黄色く変色した紙に、手書きの文字。
自分が、先ほどトイレの入り口で見たものと、まったく同じ貼り紙だった。
いつ、こんなものをポケットに入れたのか。
覚えていない。
田中の手が、小刻みに震えだした。
裏返すと、そこにも文字があった。
貼り紙の表には書かれていなかった、続きの文章。
「これは、何度目ですか」
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