幽霊博士の実験記録──一話完結の現代怪談・短編ホラー集

一話完結の現代怪談・短編ホラーを掲載。心霊、都市伝説、人間の狂気、呪物、学校の怪談など、日常に潜む違和感をテーマにした創作ホラー集。

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このブログで公開している短編怪談を、まとめ読みしやすい短編集として再編集しました。
ブログ未掲載の限定収録作も追加しています。

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妖異抄#12「壁の夜道」

田中誠は終電を逃した。

時刻は午前一時を過ぎていた。

スマートフォンの画面が青白く照らす顔は、疲弊しきっていた。

残業、また残業。上司の顔が脳裏に浮かぶたび、胃が締めつけられる。

タクシーを拾おうと大通りを歩いたが、一台も来ない。

仕方なく、田中は近道を選んだ。

いつも使う路地裏だ。昼間は飲食店の搬入口が並ぶ、騒がしい場所。

だが深夜は別の顔を持つ。街灯が一本、ぼんやりと点灯しているだけで、左右に伸びる

コンクリートの壁が闇の中に沈んでいた。

歩き始めてすぐ、田中は立ち止まった。

路地の奥に、男が立っている。スーツ姿。こちらに背を向けたまま、動かない。

「すみません」

声をかけた。

男は振り向かなかった。

ただ、両手を前に伸ばし、壁を押しているような姿勢をしていた。

壁に何かを探しているのか。酔っているのか。田中はもう一歩近づいた。

男の輪郭が、おかしかった。

街灯の光の中で、男のシルエットがぼんやりと滲んでいた。影が濃すぎる。

人間の影というより、壁に貼りついた染みのような。

「大丈夫ですか」

もう一度呼びかけた瞬間、男が消えた。

溶けるように。音もなく。

田中は立ちすくんだ。心臓が跳ね上がった。見間違いだと思いたかった。

疲労のせいだと言い聞かせた。それでも足が震えた。三秒、五秒、十秒。

やがて、田中は歩き出した。

出口はもうすぐのはずだ。

この路地は五十メートルほど。抜ければ、タクシーが走る通りに出られる。

しかし、出口が見えない。

路地の向こう端が、壁だった。

「……は?」

おかしい。この路地に行き止まりはない。通勤で何百回と使ってきた道だ。

両側に飲食店があり、中華料理屋、居酒屋、クリーニング店。だが今、左右を見ると、

ドアも窓もない。ただの壁が続いている。

来た方向に振り向いた。

そちらも壁だった。

入口が消えていた。前にも後ろにも、コンクリートの壁だけが続いている。

表面は湿っていて、街灯の光を鈍く反射している。

「——誰かいるか!」

叫んだ声は壁に吸い込まれた。反響しない。音が死んでいる。

スマートフォンを取り出すと、電波は圏外を示していた。GPSも動かない。地図アプリ

を開いても、現在地が表示されない。

田中は壁を手で伝いながら歩いた。

継ぎ目がない。まるで最初からここに存在していたような、完璧なコンクリートの面。

田中の指先が白くなるほど押しても、壁はびくともしなかった。

そのとき、気づいた。

壁と壁の間隔が、狭くなっている。

両手を広げると、左右の壁に同時に触れた。いつの間に、こんなに狭くなったのか。

肩幅ほどの空間しか残っていない。

そして、田中は見た。

壁に、手形があった。

一つではない。無数に。コンクリートの表面を這うように、手形がびっしりと刻まれて

いた。爪が折れたのか、引っかき傷も混じっている。高い位置から低い位置まで、層を

重ねるように残されている。古いものと、新しいもの。

新しい手形は、まだ湿っていた。

「誰かが……ここに……」

声が震えた。

田中と同じように閉じ込められた人間が、ここで壁を叩き続けたのだ。

一人ではない。何十人も、何百人も。そして誰も、出られなかった。

壁がさらに迫った。

体を横にしなければ動けない。スーツのボタンが壁に引っかかった。

息が浅くなる。喉が締まるような感覚。田中は必死に壁を押し続けた。

どのくらい時間が経ったか分からない。

へたり込んだ瞬間、両側の壁が太ももに触れた。

立ち上がれない。立ち上がる空間がない。スマートフォンのバッテリーが切れ、完全な

暗闇が落ちてきた。

田中は目を閉じた。

もう終わりだ、と思った。

そのとき、正面の壁が、動いた。

ぼこり、と。内側から押し出されるように、コンクリートが盛り上がった。

田中は目を見開いた。

壁の表面が、ゆっくりと変形していく。まるで粘土のように。

中心に向かって、くぼみが広がる。眼窩のような、二つのくぼみ。

その下に、縦に走るひび割れ。鼻筋のような。

顔だった。

巨大な、人間の顔が、壁から浮き出ていた。

目はなかった。鼻は潰れていた。だが口だけが、はっきりと形をなしていた。

薄く、横に長く裂けた口が、ゆっくりと開いていく。

内側は暗く、深く、底が見えない。

腐った土のような臭いが漂った。

 

 

口が、動いた。

「ぬりかべ~」

低く、間延びした声だった。まるで眠たそうな、しかし確かな悪意を含んだ声だった。

楽しんでいるような声だった。何百年も、ずっとそうしてきた何かの声だった。

田中の悲鳴が、夜の路地裏に響いた。

それは長く、長く続いた。

やがて、静かになった。

翌朝、配達員が路地裏を通り抜けた。

荷物を抱え、イヤホンで音楽を聴きながら、足早に歩いた。

壁のコンクリートに、新しい手形が一つだけ増えていた。

配達員は気にも留めなかった。

そのまま、通り過ぎた。


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