幽霊博士の実験記録──一話完結の現代怪談・短編ホラー集

一話完結の現代怪談・短編ホラーを掲載。心霊、都市伝説、人間の狂気、呪物、学校の怪談など、日常に潜む違和感をテーマにした創作ホラー集。

📘 ホラー短編集をBOOTHで販売中です

このブログで公開している短編怪談を、まとめ読みしやすい短編集として再編集しました。
ブログ未掲載の限定収録作も追加しています。

幽霊博士のホラー短編集はこちら

狂気譜#10「地獄面接」

気がつくと、健司は白い待合室に座っていた。

壁も床も天井も白い。病院のようで、役所のようでもある。正面の電光掲示板には赤い文字で「四八一九」と表示されていた。

手の中には同じ番号札がある。紙は湿っていた。汗ではない。生温かく、鉄の匂いがした。

「次の方、どうぞ」

受付の女が微笑んだ。整った顔なのに、目だけが何も見ていなかった。

健司は立ち上がろうとして、足首に黒い鎖が巻きついていることに気づいた。鎖は床の中へ沈んでいる。引いても、骨に食い込むだけだった。

「ここはどこだ」

「面接室へお進みください。遅れると、痛みから始まります」

その一言で、健司は質問をやめた。

扉の向こうは、白い待合室とは別の世界だった。

床一面に浅い血が張っている。天井からは無数の腕がぶら下がり、爪先で空中を引っ掻いていた。壁には顔のない人間たちが埋め込まれ、口だけを開閉させている。

声はない。

ただ、濡れた肉が擦れる音だけが、ぬちゃ、ぬちゃ、と続いていた。

奥の机に、黒い背広の男が座っていた。男は書類をめくりながら言った。

「佐伯健司さんですね」

「違う。俺は死んでない。昨日も普通に帰って、寝て、それで」

「就寝中に火災がありました。煙を吸い、搬送先で死亡。ご家族も同じです」

健司は息を呑んだ。

喉の奥に焦げた匂いが戻ってきた。妻の悲鳴。娘の名前を呼ぶ自分の声。熱くて、暗くて、何も見えなかった最後の記憶。

「妻と娘は」

「この後、面接予定です」

「面接って何だ」

男は顔を上げた。指が六本あった。

「適性です」

血の床が泡立った。

そこから、顔の半分を焼かれた男が這い上がってきた。健司の部下だった三島だった。

「佐伯さん」

三島は黒い舌を震わせて言った。

「僕の報告書、燃やしましたよね」

健司の体が固まった。

「三島……」

「僕のせいにしましたよね。僕が横領したことにして、事故も、全部」

「違う。会社が、上がそうしろって」

三島の手が健司の頬をつかんだ。爪が皮膚の下へ入り、ゆっくりと開いていく。肉が裂ける音が、耳のすぐ内側で鳴った。

健司は叫んだ。

男が小さな鐘を鳴らすと、痛みは消えた。

健司は床に膝をついた。顔に触れると傷はない。だが、痛みの記憶だけは生々しく残っていた。

「これは刑罰ではありません。面接です」

「何を選ばせる気だ」

男は机の上に一枚の契約書を置いた。

「あなたには三つの道があります。一つ目は、自分だけが赦される道。二つ目は、妻か娘のどちらかを身代わりにする道。三つ目は、妻と娘を助ける道です」

健司は契約書を見た。

文字は読めるのに、意味が頭に入らない。だが、三つ目の欄だけは妙にはっきり見えた。

妻と娘を救済する。

男が指を鳴らした。

机の横に、妻と娘が現れた。

妻はすすで汚れた寝間着のまま、娘を抱きしめていた。娘の髪はところどころ焦げ、裸足の足には黒い煤がこびりついていた。

 

 

「お父さん」

娘が言った。

健司の胸が潰れた。

「真奈。美穂。無事だったのか」

妻は震える声で言った。

「あなた、ここから出られるの?」

健司は契約書を握りしめた。

自分だけ助かる道がある。どちらかを犠牲にする道もある。

だが、もう逃げることだけはできなかった。

生きている間、健司はいつも誰かに押しつけてきた。三島に。部下に。妻に。都合の悪いものは隠し、責任は別の場所へ流した。

だからこそ、今度だけは違う選択をしなければならないと思った。

健司はペンを取った。

黒いペン先から、血が一滴落ちた。

「俺は、二人を助ける」

妻が息を呑んだ。娘が泣きそうな顔で健司を見た。

「お父さん……」

健司は三つ目の欄に印をつけ、自分の名前を書いた。

その瞬間、妻と娘の喉に浮かんでいた黒い輪が砕けた。

二人の背後に、白い扉が現れた。扉の隙間から暖かい光が漏れている。花の匂いがした。娘が小さく笑った。

「お父さん、ありがとう」

健司は、初めて救われた気がした。

自分の罪は消えなくても、二人だけは助かる。そう思った。

だが、黒い背広の男が契約書を裏返した。

そこには小さな文字で、こう書かれていた。

救済とは、罪人が最も望むものを与え、その直後に奪う刑である。

健司の笑みが固まった。

白い扉の向こうから、無数の腕が伸びた。皮膚のない、赤黒い肉の腕だった。

「いやっ!」

妻が叫んだ。

腕は妻と娘を抱きしめるようにつかみ、光の中へ引きずり込んだ。娘が健司へ手を伸ばす。

「お父さん!」

健司は走ろうとした。

だが血の床が膝まで盛り上がり、彼をその場に縫いつけた。

白い光は赤く染まり、花の匂いは焼けた髪の匂いに変わった。

やがて扉が閉じた。

健司は呆然としたまま、男を見た。

「助けると書いたはずだ」

「ええ。助けました」

男は穏やかに言った。

「あなたが一番苦しむ形で」

床が裂けた。

下には、果てのない穴があった。血と火と、歯のような岩が渦を巻いている。その底から、妻の声が聞こえた。

「あなた……」

続いて、娘の声。

「お父さん、痛いよ」

健司は穴の縁にしがみついた。

「俺だけでいい。俺だけ落としてくれ」

「もう契約は完了しました。あなたは妻と娘を助ける選択をした。その結果、三名そろって同じ場所へ行くことが決まりました」

「そんなの、助けたことにならない」

男は笑った。

「地獄では、希望を持たせることを救済と呼びます」

黒い腕が健司の背中を押した。

その時、穴の底から小さな手が伸びてきた。

真奈の手だった。

健司は反射的に掴んだ。

「お父さん、一緒にいて」

焼けただれた娘の顔が闇の中に浮かんだ。目だけが、生きていた頃のままだった。

健司は泣きながら頷いた。

「ああ。一緒だ。もう離さない」

その瞬間、娘の手が異様な力で健司を引いた。

健司は穴へ落ちた。

落ちながら、妻の姿が見えた。妻は娘を抱きしめていた。だが、その目はもう健司を見ていなかった。憎しみでも悲しみでもない。何も残っていない目だった。

三人は血の海へ落ちた。

痛みが全身を噛み砕いた。

それでも健司は娘の手を離さず、妻へ腕を伸ばした。

「ごめん。俺が悪かった。全部、俺が」

妻はゆっくり顔を上げた。

「謝らないで」

健司は一瞬、赦されたのだと思った。

しかし妻は続けた。

「あなたが謝るたびに、ここが熱くなるの」

娘が泣き出した。

「お父さんが優しくすると、もっと痛い」

健司の呼吸が止まった。

血の海の奥で、黒い背広の男の声が響いた。

「これより三名は、家族の地獄へ配属されます。罪人が愛する者を想うたび、その愛された者に痛みが与えられます」

健司は妻と娘から離れようとした。

だが、もう遅かった。

三人の体は黒い鎖で一つに縫い合わされていた。離れようとすれば肉が裂け、近づけば互いの痛みが増す。

妻が悲鳴を上げた。

娘が泣いた。

健司は二人を見ないように目を閉じた。

けれど、まぶたの裏には白い扉が浮かんでいた。

今度こそ助かるかもしれない。

そう思ってしまった瞬間、妻と娘が同時に絶叫した。

健司の希望が、二人を焼いたのだ。


読んでくださりありがとうございます。
よければ応援クリックお願いします。