気がつくと、健司は白い待合室に座っていた。
壁も床も天井も白い。病院のようで、役所のようでもある。正面の電光掲示板には赤い文字で「四八一九」と表示されていた。
手の中には同じ番号札がある。紙は湿っていた。汗ではない。生温かく、鉄の匂いがした。
「次の方、どうぞ」
受付の女が微笑んだ。整った顔なのに、目だけが何も見ていなかった。
健司は立ち上がろうとして、足首に黒い鎖が巻きついていることに気づいた。鎖は床の中へ沈んでいる。引いても、骨に食い込むだけだった。
「ここはどこだ」
「面接室へお進みください。遅れると、痛みから始まります」
その一言で、健司は質問をやめた。
扉の向こうは、白い待合室とは別の世界だった。
床一面に浅い血が張っている。天井からは無数の腕がぶら下がり、爪先で空中を引っ掻いていた。壁には顔のない人間たちが埋め込まれ、口だけを開閉させている。
声はない。
ただ、濡れた肉が擦れる音だけが、ぬちゃ、ぬちゃ、と続いていた。
奥の机に、黒い背広の男が座っていた。男は書類をめくりながら言った。
「佐伯健司さんですね」
「違う。俺は死んでない。昨日も普通に帰って、寝て、それで」
「就寝中に火災がありました。煙を吸い、搬送先で死亡。ご家族も同じです」
健司は息を呑んだ。
喉の奥に焦げた匂いが戻ってきた。妻の悲鳴。娘の名前を呼ぶ自分の声。熱くて、暗くて、何も見えなかった最後の記憶。
「妻と娘は」
「この後、面接予定です」
「面接って何だ」
男は顔を上げた。指が六本あった。
「適性です」
血の床が泡立った。
そこから、顔の半分を焼かれた男が這い上がってきた。健司の部下だった三島だった。
「佐伯さん」
三島は黒い舌を震わせて言った。
「僕の報告書、燃やしましたよね」
健司の体が固まった。
「三島……」
「僕のせいにしましたよね。僕が横領したことにして、事故も、全部」
「違う。会社が、上がそうしろって」
三島の手が健司の頬をつかんだ。爪が皮膚の下へ入り、ゆっくりと開いていく。肉が裂ける音が、耳のすぐ内側で鳴った。
健司は叫んだ。
男が小さな鐘を鳴らすと、痛みは消えた。
健司は床に膝をついた。顔に触れると傷はない。だが、痛みの記憶だけは生々しく残っていた。
「これは刑罰ではありません。面接です」
「何を選ばせる気だ」
男は机の上に一枚の契約書を置いた。
「あなたには三つの道があります。一つ目は、自分だけが赦される道。二つ目は、妻か娘のどちらかを身代わりにする道。三つ目は、妻と娘を助ける道です」
健司は契約書を見た。
文字は読めるのに、意味が頭に入らない。だが、三つ目の欄だけは妙にはっきり見えた。
妻と娘を救済する。
男が指を鳴らした。
机の横に、妻と娘が現れた。
妻はすすで汚れた寝間着のまま、娘を抱きしめていた。娘の髪はところどころ焦げ、裸足の足には黒い煤がこびりついていた。

「お父さん」
娘が言った。
健司の胸が潰れた。
「真奈。美穂。無事だったのか」
妻は震える声で言った。
「あなた、ここから出られるの?」
健司は契約書を握りしめた。
自分だけ助かる道がある。どちらかを犠牲にする道もある。
だが、もう逃げることだけはできなかった。
生きている間、健司はいつも誰かに押しつけてきた。三島に。部下に。妻に。都合の悪いものは隠し、責任は別の場所へ流した。
だからこそ、今度だけは違う選択をしなければならないと思った。
健司はペンを取った。
黒いペン先から、血が一滴落ちた。
「俺は、二人を助ける」
妻が息を呑んだ。娘が泣きそうな顔で健司を見た。
「お父さん……」
健司は三つ目の欄に印をつけ、自分の名前を書いた。
その瞬間、妻と娘の喉に浮かんでいた黒い輪が砕けた。
二人の背後に、白い扉が現れた。扉の隙間から暖かい光が漏れている。花の匂いがした。娘が小さく笑った。
「お父さん、ありがとう」
健司は、初めて救われた気がした。
自分の罪は消えなくても、二人だけは助かる。そう思った。
だが、黒い背広の男が契約書を裏返した。
そこには小さな文字で、こう書かれていた。
救済とは、罪人が最も望むものを与え、その直後に奪う刑である。
健司の笑みが固まった。
白い扉の向こうから、無数の腕が伸びた。皮膚のない、赤黒い肉の腕だった。
「いやっ!」
妻が叫んだ。
腕は妻と娘を抱きしめるようにつかみ、光の中へ引きずり込んだ。娘が健司へ手を伸ばす。
「お父さん!」
健司は走ろうとした。
だが血の床が膝まで盛り上がり、彼をその場に縫いつけた。
白い光は赤く染まり、花の匂いは焼けた髪の匂いに変わった。
やがて扉が閉じた。
健司は呆然としたまま、男を見た。
「助けると書いたはずだ」
「ええ。助けました」
男は穏やかに言った。
「あなたが一番苦しむ形で」
床が裂けた。
下には、果てのない穴があった。血と火と、歯のような岩が渦を巻いている。その底から、妻の声が聞こえた。
「あなた……」
続いて、娘の声。
「お父さん、痛いよ」
健司は穴の縁にしがみついた。
「俺だけでいい。俺だけ落としてくれ」
「もう契約は完了しました。あなたは妻と娘を助ける選択をした。その結果、三名そろって同じ場所へ行くことが決まりました」
「そんなの、助けたことにならない」
男は笑った。
「地獄では、希望を持たせることを救済と呼びます」
黒い腕が健司の背中を押した。
その時、穴の底から小さな手が伸びてきた。
真奈の手だった。
健司は反射的に掴んだ。
「お父さん、一緒にいて」
焼けただれた娘の顔が闇の中に浮かんだ。目だけが、生きていた頃のままだった。
健司は泣きながら頷いた。
「ああ。一緒だ。もう離さない」
その瞬間、娘の手が異様な力で健司を引いた。
健司は穴へ落ちた。
落ちながら、妻の姿が見えた。妻は娘を抱きしめていた。だが、その目はもう健司を見ていなかった。憎しみでも悲しみでもない。何も残っていない目だった。
三人は血の海へ落ちた。
痛みが全身を噛み砕いた。
それでも健司は娘の手を離さず、妻へ腕を伸ばした。
「ごめん。俺が悪かった。全部、俺が」
妻はゆっくり顔を上げた。
「謝らないで」
健司は一瞬、赦されたのだと思った。
しかし妻は続けた。
「あなたが謝るたびに、ここが熱くなるの」
娘が泣き出した。
「お父さんが優しくすると、もっと痛い」
健司の呼吸が止まった。
血の海の奥で、黒い背広の男の声が響いた。
「これより三名は、家族の地獄へ配属されます。罪人が愛する者を想うたび、その愛された者に痛みが与えられます」
健司は妻と娘から離れようとした。
だが、もう遅かった。
三人の体は黒い鎖で一つに縫い合わされていた。離れようとすれば肉が裂け、近づけば互いの痛みが増す。
妻が悲鳴を上げた。
娘が泣いた。
健司は二人を見ないように目を閉じた。
けれど、まぶたの裏には白い扉が浮かんでいた。
今度こそ助かるかもしれない。
そう思ってしまった瞬間、妻と娘が同時に絶叫した。
健司の希望が、二人を焼いたのだ。
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