終電を逃した夜、携帯の電池も切れていた。
慎也は遠回りになる踏切を渡るしかなかった。夜の十一時を過ぎ、街灯もまばらな道に人影はない。
カンカンカン、と警報音が鳴り響く。
遮断機が下りる直前、慎也は駆け込もうとして足を止めた。
線路の向こう側に、何かがうごめいていた。
最初は影だと思った。だが、それは膨れ上がり、蠢き、こちらへ近づいてくる。月明かりに照らされて、ようやくその正体が見えた。
ネズミだった。
数百、いや数千匹のネズミが、黒い波のように線路を埋め尽くしていた。
「なんだ、これ……」
慎也の声が震える。ネズミたちは線路を這い、枕木を駆け、レールに群がっていた。その数は見る間に増え続け、踏切全体を覆い尽くそうとしていた。
電車が近づく振動が足元から伝わってくる。
ネズミたちは逃げなかった。それどころか、線路の上で立ち止まり、一斉にこちらを向いた。
数千の目が、慎也を見つめていた。
「ニンゲン」
誰かが呼んだ。
慎也は周囲を見回した。誰もいない。
「ニンゲン、キコエルカ」
声は足元から聞こえてきた。ネズミたちが口を開いている。一匹一匹が、バラバラに、しかし同じ言葉を紡いでいた。
「ワタシタチハ、マッテイタ」
鳥肌が立つ。足が動かない。
「オマエヲ、マッテイタ」
電車のライトが遠くに見えた。警報音が激しさを増す。
ネズミたちは動じない。線路の上で、踏切の中で、じっと佇んでいる。
「ニンゲンガ、オトシタモノヲ、ヒロッタ」
何を言っているのか分からない。慎也は後ずさりしようとしたが、足が遮断機に引っかかった。
「サンネンマエ、オマエハ、コノバショデ、ヒロッタ」
三年前。
記憶が蘇る。
確かにこの踏切で、財布を拾ったことがあった。中身は十万円。落とし主を探すこともなく、警察に届けることもなく、慎也はそれを使った。
「アノカネハ、ワタシタチノモノダッタ」
ネズミたちが一斉に前進した。
「ワタシタチガ、ヌスンダカネダッタ」
電車が迫る。ライトが踏切を照らし始めた。
「ダカラオマエハ、ワタシタチカラヌスンダ」
「ふざけるな!」
慎也は叫んだ。
「お前らだって盗んだ金だろうが! 泥棒が泥棒に説教するな! 人間に化けて偉そうに喋ってんじゃねえよ、害獣が!」
ネズミたちの動きが止まった。
一瞬の静寂。
そして、甲高い鳴き声が響き渡った。
「ドロボウハ、ドロボウ」
「ツミビトハ、ツミビト」
「オマエモ、オナジ」
ネズミたちが踏切の中へ流れ込んできた。足元を這い上がり、ズボンに爪を立て、背中を駆け上がる。
「イマカラオマエハ、ワタシタチノナカマダ」
電車が目の前まで来ていた。
慎也は必死にネズミを振り払おうとしたが、数が多すぎる。体中を這い回り、服の中に潜り込み、口元に迫ってくる。
その時、遮断機の向こうから人影が現れた。
「おい、大丈夫か!」
駅員だった。懐中電灯の光が慎也を照らす。
「助けて!」
慎也は手を伸ばした。駅員が駆け寄ってくる。
ネズミたちが一瞬、動きを止めた。
「ニンゲンガクル」
「マダダ、ヤツハマダニンゲンダ」
「マズハカンセイサセロ」
黒い波が引いていく。ネズミたちは線路から離れ、闇の中へ消えていった。
駅員が慎也の腕を掴み、踏切の外へ引っ張り出した。電車が通過していく。轟音と風圧。
「危なかったな。なんでこんなところに」
駅員の声が遠い。
慎也は息を荒げながら、自分の体を確認した。服は破れ、腕には無数の引っかき傷があったが、命に別状はない。
「助かった……」
安堵の息を吐いた瞬間、駅員の手が慎也の肩を掴んだ。
「なあ、お前」
駅員の声が変わっていた。
「三年前、ここで金、拾ったろ」
慎也は顔を上げた。
駅員の目が、真っ黒だった。人間の目ではない。ネズミの目だった。
「助けてやったと思ったか」
駅員の口元が裂ける。中から小さな鼻先が覗く。
「オレハモウ、カンセイシテル」
「ダカラ、ニンゲンニマジッテ、エモノヲサガセル」
「オマエヲミツケタノモ、オレダ」
駅員の腕から黒い毛が生え始める。
「オマエハ、アノトキ、ハンコウシタ」
「ダカラマズ、オソレヲトリノゾク」
「ソシテ、アンシンサセテカラ、カエル」
背後で何かが蠢く音がした。
振り返ると、踏切の向こう側に、さっきとは比べ物にならない数のネズミが集まっていた。
そして、その中に人間の姿が混じっていた。
学生服を着た者、スーツ姿の者、作業着の者。
みな、目が真っ黒だった。
「ナカマガフエタ」
ネズミたちが一斉に囁く。
「マタアシタモ、フエル」
駅員の姿が崩れていく。制服が破れ、体が縮み、黒い毛に覆われていく。
最後に残ったのは、一匹のネズミだった。
それは慎也の足元で立ち上がり、人語で囁いた。
「ハンコウシタブン、モットクルシメル」
慎也は走り出した。
だが、数メートル進んだところで足が止まった。
体が動かない。
足元を見下ろすと、自分の手が黒く変色し始めていた。指が縮み、爪が伸び、毛が生えてくる。
全身に激痛が走る。骨が軋み、肉が捻れる。

「やだ、やだ……」
声が掠れる。喉が細くなっていく。
膝から崩れ落ちる。視界が低くなる。
痛みは消えない。変化が止まらない。
最後に見えたのは、踏切の向こうで待つ無数のネズミたちと、その中に混じる人間の形をした何かだった。
そして、自分もそこに加わることになるのだと、理解した。
翌朝、踏切の近くで学生鞄が見つかった。
中には財布と学生証。持ち主の名前は加藤慎也。
警察は家出と判断した。
それから一週間後、同じ踏切で若い女性が行方不明になった。
その翌週も、また一人。
夜の踏切には、今日も警報音が鳴り響いている。
そして線路の向こうで、何かが蠢いている。
人間の姿をした駅員が、懐中電灯を持って、獲物を探している。
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