深夜二時を回った頃、タクシーの無線はすっかり沈黙していた。
街の灯りは眠りに落ち、交差点の信号だけが律儀に赤と青を繰り返している。
ハンドルを握りながら、運転手の佐藤は煙草に火をつけた。こういう時間帯は、退屈か、あるいは妙な客に当たるか、どちらかしかない。
前方で手を挙げる影を見つけ、ブレーキを踏んだ。
後部座席に乗り込んできたのは、二十代半ばほどの女だった。髪は肩までで、黒のコートを羽織っている。
「道、覚えてるでしょ?」
そう言って、彼女は窓の外に視線を落とした。
佐藤は眉をひそめた。初めて会う顔だ。
だが、客の言葉を否定しても仕方ない。曖昧に笑って、アクセルを踏んだ。
走り出して間もなく、彼女は再び口を開いた。
「ここ、左。覚えてるでしょ?」
結局、指示されるまま走った末に、郊外の住宅地に着いた。
降りるとき、女は金を置き、「ありがとう」とだけ言って闇に消えた。
――その一時間後。
同じ交差点で、また手が挙がった。今度はスーツ姿の男だ。乗り込むなり、やはり同じ言葉を口にした。
「道、覚えてるでしょ?」
佐藤の背筋がわずかに冷えた。声の調子も抑揚も、先ほどの女とほとんど同じだ。
「……ええ、まあ」
自分でも不自然な返事だと思いながら、車を走らせた。男も途中で窓を指さし、
「ここ、右。覚えてるでしょ?」
と呟く。
着いた先は、先ほどと同じ住宅地だった。
違う家かと思ったが、暗闇に浮かぶ門柱は、たしかに同じだった。
男は金を払い、無言で降りた。
胸の奥に重い不安が沈殿していく。
――三度目は午前四時を少し回った頃だった。
交差点の信号の下、今度は老人が立っていた。
杖を突き、ゆっくりとタクシーに乗り込む。
「道、覚えてるでしょ?」
佐藤の喉がひゅっと鳴った。
同じ言葉。同じ抑揚。三度目ともなると、ただの偶然では片づけられない。
車を発進させながら、彼はバックミラーを盗み見た。老人の顔は、街灯の明かりのたびに影に沈み、細部が見えない。
「ここ、真っ直ぐ。覚えてるでしょ?」
道は一本道だ。やがて住宅地の入口が近づく。
――だが、その先に立っていたのは、最初に乗せた女だった。
彼女は暗がりに立ち、笑っていた。
佐藤は急ブレーキを踏んだ。だが、振り返ると後部座席にはもう誰もいない。
エンジン音だけが虚しく響く。
交差点へ戻ろうとハンドルを切ったとき、ルームミラーに映る後部座席に気づいた。
――女と男と老人が、並んで座っていた。
三人の口が同時に開く。
「道、覚えてるでしょ?」

声が車内を満たす。逃げ場などない。
佐藤はアクセルを踏み込み、交差点に飛び込んだ。信号は赤だった。
轟音。ガラスの砕ける音。鉄の軋み。
最後に聞いたのは、信号機の点滅ではなく、あの三人の声だった。
「ここで終わり。覚えてるでしょ?」
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