アパートの部屋に一日中いると、壁が迫ってくるように感じた。
隣の咳払い、上の階の洗濯機の音、どれもが耳の奥にこびりつく。仕事を失ってからは特にそうだった。
だから俺は毎日外に逃げる。
だが行くあてもない。図書館では視線が痛く、ファミレスでは長居を咎められる。
結局たどり着くのは、錆びた遊具と色褪せたベンチしかないこの小さな公園だった。
ここだけは俺を拒まない。惨めな現実を抱えたままでも、唯一腰を下ろせる場所だった。
最初にその女を見たのは、曇った夕暮れだった。ブランコに座り、うなだれるように下を向いている。

長い髪が顔に垂れ、頬はやせ細り、年齢は三十代ほどに見えた。古びた服に覆われた肩は小刻みに震え、両手は白く強張って錆びた鎖を掴んでいる。顔の大半は影に沈んでいたが、口元だけが微かに動いていた。
その姿はまるで、俺の居場所を奪うように静かに存在し続けていた。
やがて、風に溶けるようにかすれ声が漏れた。
「……話しかけてこない」
ひどく場違いで、空気を濁らせる一言だった。俺は耳を塞ぎたかったが、目を逸らせなかった。
翌日も同じ時間、ベンチに腰を下ろした。やはり女はいた。姿勢も服も同じ。今度は掠れ声で、弱々しくこう言った。
「……返事、ないの」
煙草を取り出すが、手が震えて火がつかない。喉が乾く。声をかけてはいけない、そう確信した。
三日目。灰色の空の下、女はやはりブランコにいた。今度は声がない。ただ口の形だけがはっきりと見えた。
〈は・な・し・か・け・て・こ・な・い〉
音もなく、唇の動きだけが俺の脳裏に焼き付く。耳鳴りのように頭の中に繰り返され、吐き気がこみ上げた。
耐えきれず声を出しかけた。
「あの──」
言い切る前に、女は煙のように掻き消えた。ブランコは微動だにしない。足跡も残っていない。俺は凍りつき、声を飲み込んだ。
それからというもの、試すようになった。黙っていれば女は現れ、声を発すれば消える。まるで俺を監視しているかのように。
「……まだ黙るの?」
「喉、開かないね」
日を追うごとに言葉は変わったが、意味は同じだった。俺が沈黙を守り続けることを責める声。その響きは夜になっても消えず、アパートの暗闇にまで侵入してきた。
眠っても夢の中に現れる。女は同じ姿勢でうなだれ、口元だけが蠢いている。起きても心臓の鼓動が収まらず、口の裏に血の味が広がる。
五日目の夜、俺は決意した。次こそ声をかける。消えても構わない。これ以上囁かれるくらいなら、はっきりさせたい。
翌日。ベンチに座ると、待っていたように女の声が落ちてきた。
「……ここまで来て、黙るんだね」
俺は全力で息を吸い込み、叫んだ。
「おい!」
瞬間、女は電源を落とした画面のように掻き消えた。空っぽの公園に俺の声だけが響き渡る。勝ったはずなのに、胸を満たしたのは空虚だった。
その夜だけは、声が耳に残らなかった。初めて静かな眠りを得られた気がした。
だが翌日。公園に行くと、女はブランコではなく、俺のベンチに座っていた。
薄暗い中で俯き、長い髪が顔を覆っている。肩は細かく揺れ、口元が蠢いているのが見えた。
「……やっと来た」
寒気が走った。逃げようとしても足は地面に縫い付けられたように動かない。
女が顔を上げる。真っ黒に濡れた瞳が俺を映す。唇が開いた。
「……話しかけてくれた」
その瞬間、俺の喉が勝手に震えた。
「……話しかけてこない」
自分の声なのに止められない。舌も唇も勝手に同じ言葉を繰り返す。
女はわずかに微笑んだ。輪郭が霞み、やがて完全に消えた。
残された俺だけが、公園で口を動かし続けていた。
「……話しかけてこない」
夜の風にその声が響き、永遠に消えることはなかった。
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