終電を逃した。
橋本は息を吐いて、川に架かる古い橋を渡り始めた。タクシーを拾うには遠回りだが、この橋を渡れば自宅まで徒歩二十分で着く。
深夜の橋には街灯がまばらで、欄干の影が長く伸びている。川面からは冷たい風が吹き上げてきた。
ふと、欄干に寄りかかる女の姿が見えた。
黒いコートを着て、長い髪を垂らしている。橋本は少し足を緩めた。こんな時間に女性が一人でいるのは物騒だ。
「大丈夫ですか」
声をかけると、女はゆっくりと顔を上げた。
青白い顔だった。目の下に濃い隈があり、唇は血の気が失せている。
「ああ、はい。ちょっと気分が悪くて」
女は力なく笑った。橋本は少しほっとした。酔っているのかもしれない。
「大丈夫そうですか? 救急車、呼びましょうか」
「いえ、もう平気です。優しいんですね」
女は欄干から離れ、橋本の方へ一歩近づいた。髪から川の匂いがした。
「ねえ、あなたの顔、水に映してみてくれませんか」
「え?」
唐突な言葉に橋本は戸惑った。
「この橋から見る水面って、すごく綺麗なんです。自分の顔が、はっきり映るの」
女は欄干を指差した。橋本は断る理由も見当たらず、欄干に近づいて下を覗き込んだ。
暗い川面に、街灯の光がゆらゆらと揺れている。
目を凝らすと、確かに自分の顔が映っていた。ぼんやりとした輪郭。疲れた表情。
「ほら、映ってるでしょう」
女の声が耳元で囁いた。近い。振り返ろうとして、橋本は凍りついた。
水面に、二つの顔が映っている。
自分の顔の隣に、女の顔。
だが、その顔は――
濡れて肌に張り付いた髪。崩れかけた鼻。白く膨れ上がった頬。水死体の顔だった。

橋本は悲鳴を上げて振り返った。
女はそこにいた。さっきと同じ、青白いだけの普通の顔で。
「どうしたんですか」
女は不思議そうに首を傾げている。
「い、いや……」
橋本は息を整えようとした。見間違いだ。暗くて、疲れていて、光の加減で――
「もう一度、見てみてください」
女が言った。
「水面に映る本当の顔が見えるんです、この橋では」
橋本は後ずさった。女は微笑んでいる。その微笑みが、どこか哀しげに見えた。
「私、ここで死んだんです。ずっと昔に」
足が震えた。逃げなければ。
女は橋本を追わず、ただ欄干に手を置いて、静かに言った。
「でも、今は違うの。誰かを道連れにすれば、私は解放される。そう教えてもらったから」
橋本は走り出した。
背後から笑い声が聞こえた気がした。
橋を渡りきり、街灯の下で息を整える。振り返ると、橋の上には誰もいない。
夢だ。幻覚だ。
そう自分に言い聞かせながら、橋本は自宅へ向かった。
翌朝、橋本は鏡の前で固まった。
顔を洗おうと洗面台に手をついた瞬間、鏡に映った自分の顔が――違った。
髪が濡れて張り付いている。肌が白く膨れている。口が、ゆっくりと開いて、水が溢れ出した。
悲鳴を上げて目を閉じる。もう一度開けると、普通の自分の顔が映っている。
手が震えた。
会社を休んだ。一日中、鏡を避けて過ごした。だが夜、トイレの鏡に、暗い窓ガラスに、スマホの黒い画面に――その顔が映り込む。
水死体の顔。自分の顔。
二日目の夜、橋本は眠れなかった。
目を閉じると、川の水音が聞こえる。ベッドが濡れている気がして跳び起きると、シーツは乾いていた。だが部屋中に、川の匂いが充満していた。
喉が渇いた。台所へ行き、コップに水を注ぐ。
飲もうとして、手が止まった。
コップの中の水面に、あの顔が映っている。膨れ上がった顔が、水の中から橋本を見上げていた。
コップを床に叩きつけた。水が飛び散る。その水たまりにも、顔が浮かんでいた。
三日目、橋本の身体は川の水を求め始めた。
喉の渇きが止まらない。水を飲んでも飲んでも、渇きは癒えない。鏡を見るたびに、自分の肌が少しずつ白く膨れていくように見えた。
会社から電話がかかってきた。無視した。友人からのメッセージも無視した。
部屋の隅で膝を抱えていると、窓の外から川の音が聞こえた。ここは川から遠く離れているのに。
その音は優しく、穏やかで、橋本を呼んでいた。
おいで、と。
楽になれる、と。
気づけば玄関に立っていた。靴を履いていた。足が勝手に動いていた。
あの橋へ向かっていた。
三日後、橋本は再びあの橋を訪れた。
女が待っていた。
「来ると思ってた」
女は欄干にもたれて、哀しそうに笑った。
「どうすれば……どうすれば元に戻るんだ」
橋本の声は震えていた。三日間、鏡に映る自分の顔から逃げ続けた。眠れば悪夢を見た。川底を這いずる夢。無数の手が足首を掴む夢。水を飲み込んで、もがいて、沈んでいく夢。目覚めるたびに、枕が濡れていた。涙なのか、川の水なのか、わからなかった。
「簡単よ。あなたも誰かに水面を見せればいい。そうすれば、呪いは移る」
「そんなこと、できない」
「じゃあ、あなたはこのまま」
女は首を傾げた。
「やがて本当に、その顔になるの。水に引き寄せられて、この橋から落ちる。私みたいに」
橋本は膝から崩れ落ちた。
「私も最初は拒んだわ。でも無理だった」
女は欄干の向こうを見つめている。
「誰かを犠牲にするか、自分が死ぬか。どちらかしかないの」
沈黙が落ちた。
やがて橋本は立ち上がった。顔を上げると、女の姿は消えていた。
それから一週間後。
夜の橋で、橋本は若い女性に声をかけた。
「すみません、ちょっといいですか」
女性は警戒した顔で立ち止まった。
「この橋から見る水面、すごく綺麗なんです」
橋本は欄干を指差した。自分でも信じられないほど、自然な笑顔が作れた。
「ちょっとだけ、見てみてくれませんか」
女性は迷ったあと、欄干に近づいた。
下を覗き込む。
その瞬間、橋本の顔から何かが抜けていくのを感じた。軽くなる。解放される。
女性が息を呑んだ。
「あの……これ、何……?」
振り返った女性の顔は青ざめていた。橋本は何も答えず、橋を渡り去った。
背後から、女性の悲鳴が聞こえた。
自宅に戻り、鏡を見る。
普通の自分の顔が映っていた。
橋本は安堵のため息をついた。終わったのだ。あの呪いから解放された。
だが――
鏡の奥で、何かが笑った気がした。
よく見ると、自分の目の奥に、別の誰かの顔が透けて見える。女の顔。そしてその奥にも、また別の誰かの顔。
どこまでも、どこまでも続く顔の連鎖。
橋本の口が、勝手に動いた。
「次は、あなたの番」
鏡の中の自分が、そう囁いた。
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